4.汝、生贄となれ

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4.汝、生贄となれ

 降りしきる雨が山地を濡らす、静かな昼下がり。  夜明けを迎えても日差しが注ぐことはなく、織戸山はしめやかで陰鬱(いんうつ)な空気に閉ざされていた。  しかしその山裾、志緒神社の境内には、午後に入ってより勢いを増す雨の音に混じり、龍笛(りゅうてき)による旋律が穏やかに響いていた。  そうして今、笛の音に導かれるように、一羽の(からす)が社務所の濡れ縁にひらりと舞い降りる。烏はその場で一、二度はばたいて雫を落としたかと思うと、瞬時に娘の姿へと変化を遂げた。  娘――琴杷は障子戸に手をかけ、社務所内へと足を踏み入れる。 「和音、ただいま帰ったぞ。それにしても、ずいぶんと降る雨じゃのう。しかも風まで出てきておる。これは春の嵐、といったところか」  琴杷が声をかけると、中にいた和音は笛を奏でる手を止め、琴杷の方を振り返った。あからさまに顔をしかめ、迷惑そうに言う。 「琴杷。畳が濡れてしまうので、入ってきたのならすぐに戸を閉めてくれませんか。後で掃除をするのが面倒なのですよ」 「ほんに、おぬしは神使いの荒い奴よのう。真幌がいないゆえ、少しは仕事に精を出してくれるかと思うたが、そこはさすがの和音じゃった。見事に、その分を神たる(わし)が請け負う羽目になっておる。よいか、神たる儂が、じゃ。儂は神なのじゃぞ」  琴杷はむっとした顔つきをすると、ずかずかと足取りに苛立ちを滲ませて囲炉裏端へと向かった。しかしそんな琴杷の様子をまったく意に介することもなく、和音は飄々(ひょうひょう)としたものである。 「どうしたんですか、そんなに語気荒くして。私はここの宮司なのですから、あなたがうちの神様であることは当然わかっていますよ」  悪びれもしないその様子に、琴杷は深い、深いため息をつく。  自在鉤(じざいかぎ)に吊るされた鍋の中、朝食の残りである芋の煮っ転がしをつまみながら、琴杷は嘆いた。 「まったく。おぬしが雨中を歩くのを(いと)うゆえ、儂が代わりに織戸山とそのまわりを見て回ってきてやったのじゃぞ。それなのに労いの言葉の一つもないとは……儂は悲しくてならんのじゃよ」 「なんだ、そんなことが不満だったのですか。それならば――それはどうも、お疲れさまでした。雨に濡れた衣服を乾かすのはどうにも手間がかかるのでね。琴杷が代わりに行ってきてくれて、本当に助かりましたよ。で、どうだったのです? 山で何か気になることはありましたか」 「特に何もない。今日もつつがなく、といったところじゃ」 「そうでしたか。それならよかった。こんなひどい雨の中、もし強い邪気でも出て私が出向かなければならないことになったら、心底面倒ですからね」 「……和音。おぬしはどうあっても、その物臭なたちを直す気はさらさらないようじゃな」  織戸山、それから周辺集落に異常がないかを数日おきに見て回るのは、志緒神社の役割の一つだった。  邪気が現れる気配があれば、和音や真幌、琴杷が向かい、それを未然に防ぐ儀を執り行う。  邪霊が出たと聞けば、すぐさま駆けつけて対処する。  そうして、織戸山とその周辺は安寧が保たれていた。 「まぁ、最近は大した邪気も出ませんし、暇な時間はこうして、適当に笛の稽古でもしていればいいので、楽ができて何よりです」  泰然と構える和音だったが、琴杷の表情は冴えなかった。 「ふん。この平穏が、いつまでも続けばいいがのう。確かに織戸山はこのところ平和なものじゃが、空を渡っている時に、南から来た渡り鳥の群れとすれ違っての。最近、何やら璃久扇に不穏な気配が色濃くなりつつあるそうじゃて」 「璃久扇にですか? おやおや、それは……」  さしもの和音も、その話には眉根を寄せ、考え込むような素振りを見せた。  それもそのはず、今、璃久扇には真幌がいるのだから。
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