30人が本棚に入れています
本棚に追加
/93ページ
何も言わず、彼は参道の奥へと歩き去っていく。
少女はしばらくの間呆気に取られたままその背を見送っていたが、ふいにその場の闇が濃くなるのを感じて、追い立てられるように彼の後を駆け出した。
天上の月が徐々に雲に覆われていくのと同時に、社のある方角へと向かう後ろ姿は暗がりに消えていく。
そんなことが、あり得るはずはないのに。
なのに、今追わなければ、その不思議な人物は暗闇に吸い込まれたまま、二度と戻ってこなくなってしまうような気がして。
だから少女は追いかけた。
濃密な闇が全身を包む恐怖さえ、忘れて。
少しでも気を抜けば、前も後ろもわからなくなってしまいそうな闇の奥。
参道をずいぶん走ったところで、月にまといつく雲が薄らいだのか、淡い光が木々の枝を透かして降り注いだ。
その光に照らされた社の前。
……見つけた。
その背を目にするなり、少女は我知らず、そっと安堵の息をついていた。
男は駆けつけてきた少女の方を振り返ることなく、ひそやかな声で囁く。
「まぁ、何しろ山奥の社だ。大した収穫にはならないだろうが」
その口調にはどこか悪巧みを口にする時のような怪しさがあって、少女は思わず首を傾げた。
……え?
かしゃん、と金属か何かが地面に落下するような音が響いたのは、次の瞬間。
その直後、じゃらり、と手で小銭を掬い取る音を耳にして、ようやく少女は、彼の言う「収穫」の意味に合点がいった。
唖然として立ち尽くす少女の足元に、ぱかりと開かれた賽銭箱が下ろされる。
箱の底には、うっすらとした光を反射する、小さな硬貨。
「……っ?!」
「残りはくれてやる。その金をうまく使って、どうにか生き延びることだな」
……のこ、り?
あまりに涼しい声色で言うものだから、そのまま彼を見過ごしてしまうところだった。
少女はややあってはっと我に返り、社から離れていく男に向かって声を張り上げる。
「……ちょ、ちょっと、待って!」
「まだ何か用か?」
男はいかにも面倒そうに言いながら振り返るが、それでも立ち止まって、少女の声に耳を傾けようとしてくれているようだった。
じっと見据えてくる視線の強さに思わずたじろいだが、このまま彼を行かせてはならないことは確かだ。
少女は男の前に回り込み、両手を広げて彼の行く手を阻止しようと試みる。
「……お賽銭は、神様のもの、です。盗んじゃ、だめなの」
「ほう。で、それがどうした?」
頭上からさらりと返された一言に、少女は面食らった。
どうやら彼は、この立派な窃盗行為に良心の呵責をまったく感じていないらしいのだ。
「泥棒は、悪いことなの」
必死に言い募ると、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
少女を見下ろし、傲岸不遜に言ってのける。
「悪いこと、か。だが、そうでもしなければ生きることさえままならぬのだから、仕方があるまい? お前の親とて同じだ。生きるためには、悪いことと知りながらお前を捨てるほかに術がなかった。それとも……お前はこうして罪を重ねて生き延びるくらいならば、喜んで死を選ぶというのか。こうでもしなければ生きられぬのなら、俺にも死ねと?」
「それは……っ」
二の句が継げなくなり、少女は歯を食いしばった。
それ以上彼の眼差しをまともに受け止めていられなくなり、つい俯いてしまう。
……ふ、と。
小さな笑い声が聞こえたのは、それからまもなくのことだった。
少女は驚いて男の顔を見上げようとしたが、それには及ばなかった。
彼は少女の背丈に合わせてしゃがみ込み、柔らかな口調で詫びてくる。
「悪かったな、名も知らぬみなしごよ。お前は優しく純真だ。それがゆえにお前が口を噤むことなど最初からわかっていたのに、意味のない質問をした」
――生きろ、と。
彼は最後に、少女に向かってそう言った。
水のように静かで、しかし確かな声で。
そうして今度こそ、彼は去っていく。
「…………」
ざぁ――と、波のように押し寄せた風に、草葉がざわめいた。
なぜ、とっさにそうしようと思ったのかは、少女自身にもわからない。
けれど気づけば、少女は暗がりの彼方へと消えていこうとする男を追って走り出していた。
夜風が吹き寄せ、参道脇の木々が騒ぐ。
闇の懐へと手招きをするように、枝葉が揺れる。
暗闇の底へと沈んでいくのを引き留めようとするかのように。
気づけば少女は、彼の手を握りしめていた。
氷のように冷え切った手が、びくりと震える。
少女の幼い手のひらでは、その骨ばった手を包み込むことすらかなわない。
「……あなた、も」
彼が少女のために、言葉にしてくれたように。
少女もまた、願いをかけたかったのだと思う。
「あなたも、生きて。どうか、……死なないで、ください」
深い暗闇に包まれた境内に、二つの声が響き合う。
名も顔も知らぬ他人どうし。
それでも、二人、互いの生きる道を祈り合った月の夜だった。
そして――
最初のコメントを投稿しよう!