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ここに巫女として置かれるようになった発端を思い出す。
母が去った後、幼い真幌は志緒神社の境内で、一人の男と出会った。
彼は賽銭箱を壊し、中にあった小銭を盗んだ。そして残ったわずかばかりの金を真幌に譲り、去っていったのだ。
あの後真幌は、賽銭箱を前にかなり長い時間、躊躇していた。父や母によく言い聞かされていたから、盗みが悪いことだというのは幼い真幌にだってわかっていたからだ。それに、賽銭は神様に捧げられたもの。盗めば、天罰が下るかもしれない。
けれど、男が言ったこともまた、事実かもしれないと思った。生きるためには、やむをえず、悪事に手を染めなければならない時がある。そして今が、その時なのではないか、と。
真幌はやがてほぞを固め、衣服の隠しに小銭を詰め込み、手のひらにも残った小銭を握りしめて、神社を後にしようとした。
その結果、ちょうど外出から戻ってきたらしい宮司――和音によって、見咎められてしまったというわけだ。
「でも、あんなにぼろぼろの神社だったんです、まさか誰かが住んでいるとは思いもしませんでしたよ。きっと最初に盗んでいった人だって、同じことを思ったはずです」
「へぇ、なるほど。真幌、あなたはやっぱり馬鹿ですねぇ」
「えぇっ、なんでですか。というか、そんなにしみじみ罵らないでください」
「だってねぇ。一般的に、盗みというのは迅速に行うものではないですか。人の気配を感じたのなら、なおさらです。あなたを放ってさっさと立ち去ったあたり、少なくともあなたの泥棒仲間は、ここに人が住んでいたことくらいすぐにわかったと思いますよ」
「うっ……」
二の句が継げなくなった真幌を、和音がからからと笑ってくる。
しかし和音は、なぜかそのすぐ後に、物憂げに顔をしかめてつぶやいた。
「ですが、今でも少々、気になるのですよね。あの時の錠前の壊れ方に、何と言ってもあの気配。あれは……いえ、まさか」
折しもそこでひときわ強い風が吹き寄せ、和音の言葉は途中で掻き消されてしまう。真幌が不思議そうに和音を見遣ると、彼はゆるりと首を横に振った。
「あなたが気にせずともよいことですよ、真幌。おや、そういえば、琴杷に用事を言いつけておくのを忘れていました」
そう言って踵を返し、社の方へと戻っていく和音の背を、真幌は小さく息をつきながら見送る。
和音のもとで働くようになって、十年。
これだけ長い年月が経っているのにもかかわらず、和音に関して知っていることは思いのほか少なかった。彼自身、自分のことを進んで話すような質ではないし、その上真幌が尋ねてみても、のらりくらりとはぐらかしてしまうためだろう。気にはなる。しかし……聞き出してみたところで、何がどうなるというわけでもない。
みるみる赤い輝きを増す斜陽を身に受け、境内を掃き清めているうちに、真幌の思考は再び、孤児になった日の記憶へと移ろっていった。
あの日盗みを働いた、名も素性も知らぬ男のことを思い返す。
今となっては、その声も、どんなやり取りを交わしたのかも覚えていない。
けれど一つだけ、今でもはっきりと記憶に残っている言葉がある。
彼は去り際、真幌に向かって、生きろ、と告げた。
そして真幌も、同じ言葉を返したのだ。
あなたも生きてと。死なないでほしいと。
晴れた日の夕暮れ時。
暮れゆく空に、ぽつり、ぽつりと星が浮かぶ。
それを見るたび、思い出さずにいられない。
この広い大地に、一人きり。天涯孤独となった時のことを。
そして同時に、祈らずにはいられないのだ。
遠い、遠い、空の下。
あの人もまた、どこかで生きているだろうか。
今の真幌と同じように、淡い色の空を仰いで、輝く星の数を数えていたら。
そうであったなら、どんなにかいいだろう……と。
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