終・桜揺れる夕空の下で

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          *  その日、珍しく竹箒を手に境内の掃除に取り組んでいた和音に、琴杷が尋ねてきた。 「まさか和音が朝から掃除に精を出すとは……はて、この後雪でも降るんじゃろうか。防寒具を出しておいたほうがよいかもしれぬな」 「相変わらずひどい言われようですねぇ。ま、今はいいでしょう。そんなことよりも、ほら。あれを見てくださいよ」 「なんじゃ、いきなり。……ん? あれは真幌と千景ではないか。二人連れ立ってどこへ行くんじゃ?」  和音が視線で示してやると、琴杷はその先に見えた光景――真幌と千景が参道を並んで歩く様子に目を瞬かせて言った。どうやら琴杷は初めて目にしたようだ。 「おや、知らなかったですか? 最近はあんな感じなんですよ。どちらかが仕事で外出する時は、ああやって見送りに行っているんです。何だか面白いので、掃除がてら観察しているのですよ」 「面白いって……。はぁ、人の恋路をそのように愉快がるとはのう。儂はとてもそのように冷やかす気分にはなれぬぞ。幸せそうであるのはいいのじゃが、あまり見ていると、どうにもこそばゆくなってくるのでな」  そうして和音はしばらくの間、二人が談笑しながら鳥居の方へ向かっていくのを眺めていたが、やがてしみじみと言った。 「それにしても、不思議なものですよねぇ。十年前出会った者達が偶然に再会し、またこうしてこの地に戻ってきて、同じ仕事をするようになったのですから。琴杷、神であるあなたにぜひとも訊きたいのですが、これは天や神々の(はか)らいというやつなのでしょうかね」  しかし琴杷も、腕を組み天穹(てんきゅう)を見遣って首を傾げるばかりだ。 「さあ、どうじゃろう。とはいえ、和音にだってわかるのではないか。天涛大御神の手により生み出されし頃から、この磨見ノ国には大いなる力が満ち満ちておる。儂の力など到底及ばぬほどのな。その力は時に人を分かち、そして結びつけもするのではなかろうか」 「天涛大神……ですか。そういえば、もう一つ、もっと疑問に思っていたことがあるのですよ。真幌のことです」 「真幌のこと?」  和音はうなずき、続けた。 「ええ。以前、まだ鳴神の穢れに侵されていた時のことを千景に聞いたのですがね。真幌だけは千景に触れても、雷の力によって傷つくことがなかったそうなのです。真幌は別に、穢れに対して何か特別な耐性があるわけでも、邪気を祓う才が突出しているわけでもないのにですよ」 「だったら儂も不可思議に思うことがあるぞ。千景の存在そのものじゃ。すべてを祓い浄める祈依川が、なぜ強すぎる穢れを浴びた形代にああして魂を授け、人としての生を歩ませようとしたのか――いや、待て。すべてを、祓い浄める……」 「確かに、すべて丸く収まってはいますよね。……もしかしたら、こうなることが、万物の浄化を(つかさど)る天涛大神の意志だったのかもしれません。川の流れでは浄め切れなかった穢れを、人の流れの中で浄めさせよう、と。誰もが忌避してやまない穢れの体現である千景を、真幌だけは恐れなかった。恐れないばかりか、彼の生を望み、愛した。そして真幌を想ったことで、千景は身に巣食っていた穢れを自ら払拭(ふっしょく)した……」 「なるほど。千景の生を望んだ瞬間から、真幌は天涛大御神の意志に組み込まれていったというわけか。大御神の特別な加護を受け、千景を救うための宿命を与えられた……」 「ま、とはいえ。真幌と千景が互いのために力を尽くしたからこそ、今この瞬間があるのです。神の意志の力だけではとてもなしえなかった。ともに生きていきたいと……二人が同じ望みを抱いた結果なのでしょう」  琴杷は驚いたように和音を見遣ると、ふっと笑った。 「なんじゃ。やっぱり今日の和音は、いつもの和音ではないみたいじゃの。珍しく気の利いたことを言うではないか」 「おや、琴杷。常々思うのですが、あなたは普段、私を何だと思っているのですか?」 「ふーむ、そうじゃな。日々、人を見かけで判断してはならぬとの教訓を示してくれる存在、かの」 「へぇ。ということは、私は結構、外面(そとづら)は評価されているのですね」 「外だけな。中身はこれだから、すぐに泣きを見ることになる。現に十年前、ふらりと現れたおぬしを宮司とした儂がそうじゃった。でも……」  ちょうどその時、鳥居のある方向から、楽しげな笑い声が響いてくる。  視線を遣ってみれば、どうやら真幌が何か千景をからかうようなことでも言ったらしい。狼狽(うろた)える千景の隣で、真幌は声を立てて楽しそうに笑っていた。   その様を眺めながら、琴杷は感慨深げな声で言った。 「和音。おぬしが来たおかげで、この地はずいぶんと明るくなった。そのことに関しては、感謝してやってもよいぞ」 「どうしたんですか。あなたが私を褒めるとは……これまた珍しいこともあったものですね」 「まぁ、よいじゃろ。たまには、こうやっておぬしを(ねぎら)っておくのもよいと思ったのじゃよ。それにしても……ふぅ、ほんに今日は、いい天気じゃのう」  澄んだ風を浴び、草木と花の香が立ち昇る。  木立に包まれた境内には、穏やかな春の陽光が降り注いでいた。
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