終・桜揺れる夕空の下で

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「そういえば、千景さん。少し、髪が伸びたのではないですか」 「そうか?」 「だって、ほら。前は肩につくか、つかないかというくらいだったのに、今はちゃんと肩に届いていますよ」  千景は少し驚いたように息を呑む。 「そう……なのか。知らなかったな。髪など、今まで気にしたことがなかったから」  千景には、幼い時代が存在していない。  目覚めた時から、老いることなく同じ姿のままだったのだと千景が語っていたのを思い出す。  けれど、今。  身の内の穢れもあれほど凄まじかった雷の力も失い、千景はただの人となった。  だから、今では他の人々と同じように、身体に時が流れるようになったのだろう。こうして髪が伸びるようになったのが、その(あか)しだ。  そのことに、真幌はほっと安堵を覚え、思わず声に出してしまう。 「ふふ、よかった」 「何がだ?」 「だって、十年前に初めて会った時だって、千景さんは今と変わらない姿だったのでしょう? このままあなたが年を取ることがなかったら……そのうち私の方が年上になって、いつかお婆ちゃんになってしまいますから」  そんなことにならなくてよかった、と真幌は思うのだ。  これからは同じように年を重ね、生きていけるのだから。  千景も似たようなことを考え、そしてその様を想像したのだろう。  かすかに肩を揺らし、愉快そうに笑った。 「……そうだな。そうはならないようで、本当によかった」 「もう、笑い事じゃないですよ……。あっ、さては、私が年を取って、(しわ)くちゃのお婆ちゃんになったところでも想像しましたね? 絶対そうに決まってます」  口を尖らせる真幌だったが、千景は楽しそうに笑みを零すばかりだ。 「真幌が年上の婆さんか。確かに、違和感があるな。だが、もしそうなったとしても……どんな姿でも、俺はお前を想っている。それだけは、知っておいてくれるか」 「なっ……!」  そもそもこうして負ぶわれてからというもの、ずっと胸が高鳴って仕方なかったというのに、こうまで言われては限界だった。  今にもぶしゅうっと音を立てて湯気が立ちそうなほどに顔を赤らめ、真幌は上ずった声で抗弁する。 「何なのですか。いっ、いきなり、そういうことを言うのは……は、反則です」 「困らせてしまったか? だが以前、お前は俺を好いていると言ってくれたのに、俺は何も言っていなかったからな。だから、そのうち伝えておきたいと思っていた」 「そ、そうだったのですか。でも、いきなりは、その……」  しかしそれ以上は言葉が続かず、真幌は口をもごもごさせながら黙り込んだ。  本当は、千景のその言葉が嬉しくてたまらなかったのだ。  けれど今は、気恥ずかしすぎてその気持ちを素直に言葉で表現することができない。  真幌は少しの間迷った末に、千景に掴まる手の力を強め、背にぴったりと身を寄せた。  巫女になる前。  まだ両親や弟達とともにいた頃は、誰かに負ぶわれることよりも、真幌が小さな弟達を背負うことの方が多かった。  だから、こうして誰かに身を(ゆだ)ねていられることが――その上、負ぶってくれているのがこの世で一番に好いている人だということが、真幌にはどうしようもなく嬉しくて、幸せでならなかったのだ。  真幌が今、どんなに幸福を感じているか、千景は知らないだろう。  そんなことを思いながら、真幌は尋ねる。 「あの……着くまで、こうしていてもいいですか」 「別に構わない。疲れているんだろう、寝ていてもいい。着く頃になったら起こしてやる」 「いいえ、寝てなんていられませんよ。だって、こんなに幸せなのに……寝ているなんて、もったいないですから」  そうして千景の背から見つめた夕空は、いつまでも目にしていたいと思うほどに美しかった――
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