28-35

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 食事中に携帯が鳴った。  すみません、おれのっす、と先輩に断って画面を確認すると、馴染みの美容室の番号からだった。食卓からからだをすこし斜にむけ、電話をとった。 「今日子(きょうこ)さんだ。──はい、大井(おおい)です」 ──承助(しょうすけ)くん、忙しい時間にごめんね。あさってで予約してくれてたカット、申し訳ないんだけどあしたに変えてもらえないかと思って。  事情を訊ねると、隣の市の総合病院に入院している今日子さんのお母さんのことで、病棟の看護師さんから連絡があったのだと教えてくれた。いわく、病院のスタッフとか入所を希望している施設の職員とか担当のケアマネとか──とにかくみんな揃っての話し合いがセッティングできたので来院してほしい、と。  ありがたいことにおれはいまのところ疎くいられている分野でもあり詳しくは知らないけれど、ドラマで見たり先輩の話に聞いたりするところの「患者家族も加わっての他職種カンファレンス」というものだろう。大勢の他職種の都合を合わせるから、どうしても患者家族に急なスケジュールで無理を言うことになりがちだと、先輩が嘆いていたことがあった。勤め先の診療所には老健機能もあるのだ。 「あした……って祝日ですよね」 ──そうなのよ。承助くんは平日がいい人だもんね。だからもしあしたが難しいなら、来週の火曜から先になっちゃうんだけど。  どうしようかな、と電話口でつぶやくおれの目の前に、先輩が新聞紙を差し出して、余白部分を指さした。『電話中にすまん、あした出張で一日いないから』という走り書きに、思わず「えっ」と声が出て、今日子さんから「どうかした?」と気遣われてしまう。 「あ、あー今日子さんすみません、じゃあ、あしたでお願いしたいです。時間は前のままでいいですか?」 ──いいの? こちらから頼んでおいてあれだけど、土日祝日は先輩と過ごしたいって前に言ってたじゃない。  初めて今日子さんに髪を切ってもらった時、髪を触られることでもたらされる心地よい浮遊感と、〆切明けだったこともあって寝てしまい、寝ぼけたついでに先輩にいだいている恋心をすっかり打ち明けてしまった。その結果今日子さんは先輩のことを、最初は『桂木(かつらぎ)先生の息子さん』と呼んでいたのに──今日子さんのお子さんは、教師をしていた先輩のご両親の教え子なのだそうだ。小学校でお母さん、中学校でお父さん、と、どちらにも担任されたことがあるらしい──いまでは『承助くんの先輩』と呼ぶ。悪くない。いい所有格だと思う。おれも先輩に『高校の後輩』と言われるより『おれの後輩』と言われるほうが好きだ。まあ先輩は職場の後輩やなんかにも『おれの後輩』の安売りをしていて、だからそれはちょっと面白くない。  おれはどうも気さくな年長の女性に対してだと気が緩みやすい傾向がある。中学の時に父ちゃんが死んでから母ちゃんとばあちゃんの三人暮らしだったことが関係するのかもしれない。その頃にはもう家を出ていたけど、十歳上の姉ちゃんもいるし。  今日子さんはご近所の久行(ひさゆき)さんの同級生だと聞いているから、七十代前半。この町で暮らすようになってから通うようになった美容室だ。先輩は隣りの市のスーパーのそばにある1000円カットを買い物ついでに利用していると聞いて、おれもおなじようにしようとしたら「他のとこ行けよ。おまえこっち来てからおれと関係ない人と話すことほとんどないだろ」と言ってきて、そのくせ「おれは子供の頃から通ってた散髪屋しか知らないし、そこはもう閉まってるからどこも教えてやれねえけど」とてんで頼りにならなかったので、久行さんに訊ねたのだ。久行さんも先輩と同じ散髪屋さんに長年通っていて、閉まってからはセルフバリカンで済ませているそうだが、さすが顔が広かった。  跡継ぎのいない理髪店はどんどん閉店してしまい、現在では旧町域──と先輩がすぐに言うからうつってしまった──には一軒もないらしい。けれど美容室はたくさんあって、新しく増えることさえある。それは「美容師の資格を持っている人が、結婚などでこの町に移住してきて、自分の店を開く」というケースが多いのだそうだ。今日子さんに限って言えば、この町の生まれであるわけだが。 「先輩はあした出張みたいで」 ──あら、それはさみしいね。時間はそのままで大丈夫なんだけど、前の人が終わったあと家に送ってくるから、すこし待たせちゃったらごめん。 「そんなのは構いませんよ。暇ですし。ではあした、お願いします。でも今日子さん、忙しいんでしょ。くたびれの出ないようにしてくださいよ」 ──はーい、ありがと。無理をお願いしてごめんね。それじゃ、お待ちしてます。  おれは通話を終了させると、食べ終えた食器を流しへ運ぼうと立ち上がった先輩にむかって口をとがらせた。 「ちょっと、出張って聞いてないですよ」 「いま言っただろ。急に決まったんだよ。もともとオンライン参加の予定だったのが、現地に行って来いって言われて。出張っつうか学会参加な。医療情報関連の」  と言いながらおれのとがらせた唇を人差し指と親指で挟んで上下に押しつぶす。夕飯の八宝菜の餡が指についたらしく、先輩はそれを舐めとり、座ったままのおれを見下ろしてニッと笑った。 「代休取らせろっつっといたから、まだ日にちわかんねーんだけど、ラーメン食いに行こうぜ。すげえ並んでるとこしか見たことねえけど、平日ならちっとはましだろ」  先輩の事もなげな態度をよそに、おれの心臓だけが騒ぎ立てる。  週末に車で買い物に出た時に通りかかると毎回行列をつくっているラーメン屋がある。おいしいんですかね、でもあの行列じゃ入る気にはなれないっすね、などと車のなかで話したことがあった、あの店のことに違いない。 「ほ……ほらー! もう! おれが気になるって言ってたとこじゃん!」  先輩に言ったんだか巨大な独り言なんだか自分でもわからないことを喚くように言い放って、頭をかかえた。  おれはもうずっと先輩にもてあそばれている──なんて言ったら「人聞きの悪いこと言うんじゃねえ」と睨まれるんだろう。でもたぶん「いいかげんなこと言うな」とは言われないと思う。だって、先輩だって無自覚であるはずがない。人の気も知らないで──いや、先輩には再会してから一五二回、高校時代を含めると通算一六〇回告白してるから、先輩のことを好きで付き合いたいと思っているというおれの気持ちは知ってるはず……知られてるよね? 忘れられてないよね? そろそろもう一回言っておいたほうがいい? ──不意に飴を与えては甘い夢を見せてくる。  今日子さんの店へ歩いてむかうと十分ほど。いまの先輩の勤務先である診療所から県道を挟んだ斜向かい、町役場の支所とおなじ並びにあって、平日の朝一番に予約をした時には出勤する先輩の車にのせてもらうこともある。きょうは祝日だし朝一番の予約でもないしそもそも先輩が早朝から出張に出ているから、運転免許のないおれに徒歩以外の選択肢はない。  ドアを開けると聞き慣れたチャイム音が鳴り、今日子さんが「よかった、いま戻ってきたところなのよ。すぐ準備するから待ち合いのほうで待ってて」と出迎えてくれた。  サロンには三台の椅子と鏡が並んではいるものの、今日子さん一人で切り盛りしている店であるため、カットは基本的に一人ずつ。他の椅子は、カラー剤の浸透を待つあいだに座ってもらったり、子供が親のカットを待つあいだに座ってもらったり、というふうに使われるらしい。  待ち合いは鏡の裏にあたる位置に設えてあって、テレビや雑誌のある、ちょっとしたリビングのような小部屋だ。 「ひゃー相変わらずゾッとするほど男前ね。きょうはまた勝手に切っちゃっていいの? 先輩の好みの髪型とかわかんないの?」  おれの髪を湿らせて分けてピンで留めた今日子さんが言う。 「うーん。髪はなんでもいいんじゃないすかね。服装がださいのもなんにも言われないし。基本この顔面さえあれば」  顎に手をやり、鏡にむかって角度と表情を整えてみせると今日子さんが「でも振られてるんでしょ」と吹き出した。背後で刃物を手にしたまま大笑いされるとちょっと背筋が冷える。  てゆーか、え? そういう口さがないところも今日子さんの好もしい点だけれども「でも振られてるんでしょ」はひどくない? 付き合ってっていう告白に応えてくれなくたって先輩がおれの顔面をものすごく気に入ってるって事実は揺るぎませんけど! あれ、顔を気に入られてたって告白に応えてもらえないって時点で振られてることになるのか? ん? でも玉砕したって感じはないんだよな。スルーされてるっていうか。やっぱり忘れられてる? てゆーかよく聴こえてなかったのかも? 一五二回すべて? そんなばかな。 「あー面白い子なのに、なんで普段すかしてんの? うち診療所とセットで来る人結構いて、承助くんの先輩のことをよく知ってる人もいるんだけど、だいたい『よくわからない若者を家に住まわせている』みたいに認識されてるんだから」  すかしてる、よくわからない、あとは──しれっとしてるとかクールとか冷淡とか。そういうのは、おれのようすを言い表そうと使われる言い回しの代表だ。それでいて先輩に対するおれの態度なんかを目の当たりにすると「基本的に他人に対してクールだが、パーソナルスペースに入れた相手には従順で馴れ馴れしい」なんていう頼んでもいない分析をされることもままある。  自意識過剰かもしれないけれど、老若男女問わず「きれいな顔に生まれついたというだけで普通より多くの恩恵を受けているのだから、努めて全方位に愛想よくして他人を気分よくさせるべきだ」という認識でおれを見る人はすくなくない。与えられる恩恵を相応の媚びや接待で還元しろ、と言わんばかりに。 「えーおれ若者ですか」  だから「愛想よくしても問題が起こりにくいだろう相手」を見極める目は持っているつもりだ。今日子さんや久行さんは大丈夫。自分の裁量で立場のある活動を長く続けるには、人との関わり方が誠実であることが重要だと思うから。 「そりゃそうでしょ。後期高齢者目前の私のことさえ『この子』呼ばわりの人たちよ」  いまや今日子さんの美容室は、心安く先輩のことを話せる得難い場だ。恋愛脳のおれは、修学旅行の消灯後にしかできないような、一昔前に台頭したケータイ小説のような、そういうレベルの恋バナをするのが、この歳になってもめちゃくちゃ楽しい。仕事の原稿でそんなことをちらっとでも書こうものなら、大学の同期でもある馴染みの編集者から『うち、ローティーン向けの恋愛ネタはやってないんだよね。直して』とすげなく指摘されるので、普段は日記に書くくらいしかできない。 「よくわからない若者と同居してるくらいじゃ、桂木先生たちに比べると霞んじゃうとこはあるよねえ」  先輩の家は先輩の生家だが、ご両親は不在だ。というのもそろって教師をしていたご両親は、定年後二人分の退職金を活用してキャンピングカーなどの設備を用意し、全国を旅している。住所は先輩の家になっているそうだが、住所地で行う手続きなどがある時に立ち寄るだけだ。  おれがいっしょに暮らすようになった時も、先輩はおれと二人で並んで撮った写真を添えてアプリからメッセージを送っただけで、ご両親からはそのメッセージに「いいね!」とペンギンが小躍りしているスタンプが返ってきただけだった。「放任過ぎないすか」と言ったおれに先輩は「過ぎるもなにも、任からは既に放たれてるだろ。独立して家計を営む身としては丁寧過ぎるぐらいじゃねえ? おれの場合は親の名義の土地家屋に住まわせてもらってるって義理があるから連絡しただけだぞ」と笑った。  おれのほうは過保護ってより出歯亀で、母ちゃんからも姉ちゃんからも、先輩に会いたいだの挨拶したいだのまだ落とせないのかだの──巨大なお世話だ──何度断っても無視しても怒っても、いまだに懲りずに──むしろ面白がって──連絡が来る。最初のうちはまだ進展がないからと躱し、その後はパンデミックでうやむやにしていたが、最近また会いたさをわざとらしく滲ませたメッセージが来る。そろそろ本気で哀れまれそうで「関係に進展がない」とは言いづらくなってきた。かといって「告白には応えてもらえないけど、からだの関係はなくもない」という事実は先輩の身持ちについて──あるいはおれが無理強いしてるとかそういう──誤解を生みそうだから絶対に言えない。これは今日子さんにだって伏せているところで、それこそ日記にしか書けない。  そうだ、きょう、告白しよう。めちゃくちゃ言いたくなってきた。  今日子さんから「ご近所からのもらいもののお裾分けだけど」と、葉のついたままのにんじんとさといもをもらった。  にんじんは葉っぱも茹でてごま油で和えて、さといもは家にあった野菜と鮭の水煮缶と合わせて粕汁にした。散髪の帰りにすこし遠回りをして地酒の蔵元で酒粕を買ってきたのだ。それと、冷凍していた鶏もも肉を一枚照り焼きにした。 「おーすっきりしたな」  帰宅した先輩が、洗ったばかりの冷んやりする手で、おれの髪をぐしゃぐしゃと撫でる。続いた「顔がちゃんと見えていいじゃん」という言葉に、ほら! 紛うかたなく先輩は! おれの顔を好き! と心のなかで叫ぶ。 「お疲れ様です。どうでした?」 「すごい人だった」 「パンデミック後初めての学会だったからですか?」 「学会はライブ配信もやってるから前より全然すくないんだけど、野球だよ。おれ関係ないと思って日付とか場所とか全然気にしてなかったんだけどさ、今日G市で優勝パレードしてて。仕方ねえから予定よりだいぶ山手に車置いてった」  そういえば天気予報が見たくてテレビをつけた時、そんなニュースをやってたかも。おれも全然気にしてなかった。  それはともかく。 「ねー先輩」  改めて呼ぶと、ん? と先輩が応じてくれる。よかった、聴こえてるよね。  小首を傾げる先輩の顎をすくってキスを落とすと、先輩がおれの上腕のあたりをつかんだ。柔らかく緩められた唇のあわいに触れた舌は、大胆に動くもう一つの舌に攫われて、仕掛けたこっちが翻弄される。  しばらく堪能してどちらからともなく唇を離す。息が乱れている。やばい、ちょっと場を温める程度で済ますつもりだったのに、この先の気が削がれるほど激しかった。このまま唇以外も貪り合いたいと暴れる衝動を必死で宥める。自分のうちに「衝動」というべつの生き物がいるみたいだ、と一瞬思って、否定する。先輩とおれとのあいだにべつの生き物なんかいてたまるか。ぜんぶおれだ。落ち着け。深呼吸。  ほのかな潤みを持っておれを見上げる意志の強そうな目をまっすぐに見つめ返した。  深呼吸。  もう一回、深呼吸。  もう一回。よし。 「先輩、好きです。おれと付き合ってください」  先輩の眼差しが揺れて、伏せられる。この反応、やっぱりちゃんと聴こえてるよね?  腕にあった手が離れ、顔を背けた先輩はそのまま踵を返す。 「わりぃ。人混みに行ったし、先風呂入るな」  再会後一五三回め、高校からの通算一六一回めとなる告白も、スルーに終わった。 「今夜冷えるらしいんで、よく温まってきてくださいね。飯も温めとくんで」  おれもスルーされたことをスルーした。  告白してもスルーされても変わらない。進展はなくたって、なにも終わらない。ただ、答えを求めることには怖気を覚えてしまう。崩壊の気配を感じるから。  怖い。それでもいつかは、おれの告白をスルーする先輩に追い縋って胸ぐらをつかんででも返事を求めたくなったり、するんだろうか。  温め直した粕汁を味見すると、酒粕の粒で口のなかがざらついた。
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