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 郵便受けの中身を回収する。リフォーム業者のポスティングには「賃貸マンションだぞ」とぼやきつつ。  知らず軽くなる足取りで向かうのは、ファミリー向けの部屋を多くかかえるマンションのなかでも一番広い、一階の角部屋。両親と弟の四人で暮らしている我が家だ。  家族宛のカタログやダイレクトメールをダイニングテーブルに選り分けて置くと、残った一つを掲げ仰いだ。出版社の社用封筒。表書きにあるのは紛うかたなき私の名前。  SNSに大井(おおい)承助(しょうすけ)──尊敬を込めて敬称略──から連絡があったのは、かれの原稿を収得し、直接手渡しで返却する、という奇遇な──という言葉では足りない、超奇遇な──出来事があった夜のことだった。  かれ自身と居士(こじ)先輩の外見に関することについての口止めと、原稿を届けたことについて編集部からもお礼のメッセージがあると思う、といった内容と共に、ソーシャルギフトのURLが届いた。お礼だと書かれてあるけど文脈的に口止め料なんじゃないの、と思いつつ、ギフトは頂戴しておいた。後日届いたのは高級そうなレトルトカレーのセットだった。カレーの写真七割でできている私のSNSを大井承助が確認したのだろうと思うと畏れ多いが、カレーはおいしかった。  そもそも「本人が伏せていることは晒さない」というリテラシーのもとSNSを使っているので、大井承助がきらきらしい美形だったとか居士先輩が「少年期はかわいかったんだろうな」って感じの目力強めのおじさんだったとか、そんな非公開情報を暴露するつもりは毛頭なかった。居士先輩はともかく、大井承助があの顔を売りにしてないっていうのは、たぶんんだろう。確かなところはわからないけれど、おそらくきっと十中八九、ややもすれば。  とにかく、大井承助からのメッセージから一日──翌日の午前中だったので正確には十時間ほど──遅れて、大井承助の連載を掲載しているウェブマガジンの編集部の公式アカウントからもメッセージが届いた。  大井承助の連載は書籍化が決まっていて、私が届けたのはそのために加筆修正を行なっているさなかの原稿だったこと。公式アカウントからの発表があるまでは書籍化の情報を漏らさないでほしいこと。そして「一冊献本を差し上げたいので、可能であれば送り先の住所と名前をお知らせいただきたいのですが……」という申し出が添えられており、躊躇なく住所と名前を返信した。よく考えればこれ、書籍化の情報が漏洩した時に備えて私の名前と住所をつかんでおく、というような意味もあったのかもしれない。  あの日、居士先輩のようすがおかしかったのも、こういう「情報を漏らしたらわかってるだろうな」という圧を受けていたからなのだろうか。  どれもいまとなっては確かめようもないし、時が巻き戻ったとしたってべつに確かめるつもりもない。  その後しばらく経ってから書籍化が発表されて、さらに待つこと数ヶ月。ついに発売日を迎える大井承助のエッセイ本の献本──「献」という字には「自分より高貴な相手にものを差し出す」という意味がある以上、自分が受け取り手である場合に使うのは間違っているのだろうけれど──が届いた。 「うっわ、サインまで入ってんの」  表紙を開いたところに、先日手帳に書いてもらったのをきっちり拡大したような、確実に本人の手によるのであろうサインが施されてあった。
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