01-09

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01-09

 偶然というものは得てして必然やら運命やら奇蹟やらと並べられ、しかもそれらよりも劣った要素であるかのように語られる。でも、だいたいのことは完全なる故意でさえないのなら、未必の故意も含めて偶然の範疇で、そこに必然や運命や奇蹟を結びつけるのは自分の心でしかないだろう。  だから、私がこの日のり込んだ電車で、紙の束の上に座ったのも、間違いなく偶然だった。ある程度は奇蹟だとも思うが、必然だの運命だのとのたまう図々しさは、残念ながら持ち合わせていない。  平日の昼。まだ、読み終えた雑誌や新聞を座席に放置する時間帯でもないだろうに、と、尻に敷いた紙をつかみ出す。それは紐で綴られたコピー用紙の束だった。  読むともなく印刷されている文字にやった目を、次の瞬間に見開いた。  慌ててスマートフォンを取り出して、ブラウザからブックマークを開く。出版社が運営している読み物のコンテンツが多く掲載されているサイトへとアクセスした。本を読む習慣はあまりないが、都会を離れてスローライフを営む人のSNSをチェックするのが好きで、その流れからweb連載を追っているエッセイもいくつかある。そのうちの一つが、このサイトで連載されている地方在住の翻訳家のエッセイだ。  そして、そのエッセイで読んだ文面が、いま手のなかにあるコピー用紙に印字されていた。  空いている車内だが一応周囲を確認し、紙の束を膝にのせ、スマートフォンのカメラを起動する。スマートフォンのスピーカー部分を押さえて音を絞りながら、シャッターを切った。  写真を開いて問題なく写っていることを確認すると、その翻訳家──大井(おおい)承助(しょうすけ)──をフォローしているSNSを開いた。  ──こちら、S電鉄G線T方面行きの電車の座席にあったのですが、大井先生のエッセイが印刷されているようです。拾得したのは13時5分頃です。N駅に預けても問題ないでしょうか?  一方的にフォローしているだけの相手にダイレクトメッセージを送る行為は、緊張する。  そもそも、これは本当にこの翻訳家のものなのか? サイトからコピペして印刷しただけのものではないのか? ところどころ手書きでチェックしたあともあるし、加筆されてもあるようだが、それだけでは本人のものだという根拠とはならない。  厄介なファンだと思われたらどうしよう。これからもフォローしていきたいのにブロックされるかも。「駅に預けても問題ないでしょうか」というのも、返事を要求している感じがしないか? 駅に預けておきますので、もし必要があれば駅のほうへご連絡をお願いします」のほうが無害だったのでは? だいたい、すぐにN駅に着くのだから、ほぼ間違いなく先方からの返事を待たずに駅に預けることになるのだし。  送ったばかりのメッセージの内容を後悔していると、スマートフォンの表示が更新された。新着メッセージだ。  ──ご迷惑をおかけしております。こちらは確かに私が電車に忘れたものです。拾ってくださった上、このように素早くご連絡をくださってありがとうございます。いまちょうどスタッフがN駅で昼食をとっておりましたので、直接受け取りに伺いたいのですが、いかがでしょう? ご都合が悪いようでしたら駅のほうへ預けてくださってももちろん構いません。 「えっ」  思わず声を上げてしまった口を、マスクの上から押さえた。  落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。スタッフと書かれてあるじゃないか。本人が来るわけじゃない。そもそも本人だとしたって、べつに胸を高鳴らせて会う相手でもないだろう。  ──わかりました。直接お渡しさせていただきます。電車はもう間もなくN駅に到着予定ですので、場所をご指定いただければ、そこにお持ちします。  ──ありがとうございます。お伺いするスタッフのほうへ確認して、場所についてすぐにご連絡いたしますね。  大井承助がなんでこんなところで電車にのってるんだ? ここは二つの政令指定都市を結ぶ、いわゆる都市圏を走る路線で、かれがエッセイやSNSで発信している内容には全然似合わない。もしかして、田舎暮らし自体がフィクションだったりする?  それに「スタッフ」ってなんだ? 秘書とか書生とか? 大売れしているわけでもない──と思しき──翻訳家に、そんなものってあるものだろうか。大井承助は顔出しをしておらず、一度検索してみたことはあるけれど、確実にこの人だという写真は見つけられなかった。もしかして、スタッフというていで本人が来るという可能性もあるのではないか?  その後に受信したメッセージで指定された改札を出て、紙の束を手に立っていると。 「すみません、ヒナさんですか? 大井の使いで参りました」  当たり前なのに、SNSに登録している名前で呼びかけられてはっとした。ヒナとは鄙だ。スローライフに憧れる者らしい名前だと自負している。  声をかけてきたのは、精悍という言葉の似合う人物だった。目や口元の皮膚の弛みから、歳の頃はおそらく三十代。ずば抜けた美形とかではないが清潔そうに整った、やや童顔ともいえる、すこし大きな目が印象的な顔立ち。物腰は穏やかで、明らかに年下の私に対しても侮るそぶりはない。  この作り込まれたふうもない感じのよさを、大井承助のエッセイを通して、私は知っている。 「もしかして、居士(こじ)先輩……?」  私のつぶやきに目の前の人物は瞠目し──直後、破顔した。 「本当にあいつ──大井の連載を読んでくださってるんですね。なら、スタッフとかごまかさなくてもよかったな」  居士先輩というのは──もちろん仮名で──大井承助のエッセイに登場する、学生時代の先輩。いま暮らしている賃貸だかの大家でもあると書かれてあったはず。 「実在したんだ……あ、すみません失礼な言い方ですね、エッセイのファンなので感動しちゃって」 「お気になさらず。このたびのご親切、大井ともども本当に感謝しています」 「いえ、ちょっとしか見てないですけど、ネットで読んだ文章が活字になってるのを見られて新鮮でした。ゲラ刷り? ってこんなふうなのかなって思ったり」  私の言った、ゲラ刷り、という言葉におそらく反応して、居士先輩の纏う空気が強張るのを感じた。 「あーこれはなんというか、その……大井は、自分の書いたもんを読み返してブラッシュアップしてってのが趣味みたいなやつなんで……」  居士先輩の目の泳ぎ方で、何かをごまかそうとしているらしいことは手に取るようにわかった。エッセイに登場する居士先輩も、実直が服を着ているような、含みのない人物として描かれていたもんな。嘘とか苦手そう。出版関係の守秘の契約みたいなやつってめちゃくちゃ厳しいって前にネットで見たし、たぶんそのへんのところなんだろう、と、内心で勝手に合点を進める。 「それで、是非なにかお礼をさせていただきたいんですが」 「えっいいですよ、そんなの」 「こういうのはきちんとさせたいので。ささやかなことしかできませんが、差し支えなければ、ご住所とお名前を教えていただいても……」 「先輩! そんなふうにオジサンから個人情報要求されたら怖いでしょ」  居士先輩の肩を叩いて現れた人影に目をやると、居士先輩よりさらに頭半分高い位置にある顔がにっこりと微笑んだ。 「ヒナさんですね? 大井承助です。この度はご親切にありがとうございました」  慌てて会釈を返しながら、なんでこの人顔出ししてないんだ? と目を瞬く。まあ──かのレオナルドディカプリオだって人々を熱狂させる美貌から解放されてのちさらに輝いているし、自分の容貌をどう利用するかは他人がとやかく言うことではない。 「だいたい何をお送りするつもりなんですか」 「地酒とか」 「ちょっと。ヒナさんお若いでしょ。のめるかどうか訊きました?」  大井承助に指摘をされた居士先輩はきょとんとして、私に顔を向けた。 「日本酒いけます?」 「あ、いえ、日本酒というか、まだ二十歳にならないので」 「マジか……すみません、日頃二十歳前後の人なんてほぼ見ないもんですから、明らかな児童ではないが未成年、という存在が頭から抜けていました」  成人年齢には達しているので未成年ではないが、居士先輩のこの「未成年」は「二十歳未満」を指しているようなので指摘はせずにおく。  初対面のおじさん二人と立ち話、というとすごく気づまりな状況のようなのに、緊張や恐縮はあるものの、不思議と不快にはならない。エッセイの影響であまり初対面という感じがしないからだろうか。いや、よく知ったおじさんとの立ち話を思い浮かべると不愉快にしかならないから、これはこの二人の雰囲気や物腰や態度──まあ、わからないけど、人柄とか──の賜物なのだろう。 「ほんとお礼とかいりませんから……あ、すみません、やっぱり、サインをいただいてもいいですか? できればでいいんですけど」 「全然値打ちのないサインですけど、そんなんで大丈夫ですか?」 「ファンにしてみたら価値大ありです。ここにお願いします」  手帳の今日の日付のページを開いて差し出すと、大井承助は自分の胸ポケットの万年筆をとって、慣れた手つきでサインをした。「作家先生」としての所作というよりは、クレジットカードで支払いをしたあとのサインをするかのような自然なしぐさだ。凝ったサインではないが、流麗な筆記体に、さすが翻訳家、と思う。 「居士先輩も、もしよろしければ書いていただけるとうれしいです」 「コジセンパイ? え……先輩名乗ったんですか?」 「ちげぇわ。そもそもそんな仮名で名乗らねえだろ。この人が一発で察してきたの。すみません、きちんと名乗っていませんでしたが、私、桂木(かつらぎ)と申します」  そう言いながら大井承助の手から手帳と万年筆を奪って、桂木維摩(ゆいま)、と書きつけた。手帳の3.7ミリの細かい方眼を縦横三マスずつ使った、大胆かつ几帳面な署名だ。 「じきに乾くと思いますが、いますぐ閉じると反対のページにインクがつくかも」  そう言いながらページを開いたままの手帳を私へと差し出した。  なるほど、維摩先輩、維摩居士+先輩、居士先輩、という連想ゲームからくる仮名なのか、と納得していると、大井承助がふはっと笑い声をもらした。 「サインの並び方がもうこれ結婚証明書じゃん……」 「アホか」  と、居士先輩も呆れたように笑って、万年筆を当たり前のように大井承助の胸ポケットへ戻した。
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