決断

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 青年は足下の穴の前に立った。胸に抱きかかえていた黒曜石を穴に入れるために、前に掲げて自分と向き合うように回転させた。 黒曜石はいつものように黒く美しい(つぶら)な瞳で青年の顔を眺めた。自分がこれから何をされるかもわからない無邪気な瞳であった。 その瞳に映るは魔術師たる自分。これでいいのか? こいつは物凄く臆病な子であることは俺がよく知っている。こんな臆病な子を首だけ出して生き埋めにすることは想像を絶する恐怖と苦痛を与えることになる。それが三日三晩で飲まず食わずであれば、その恐怖と苦痛は極致に達する。 そして、最後は俺の手で首を刎ねなくてはならない…… 刎ねられた黒曜石の瞳に映るのは魔術師の俺か? いや、ただの鬼や腐れ外道だ。 犬は、元々は野生で暮らしていた狼であった。しかし、人間が無理矢理に自分達の社会に組み込んで犬としてしまった。そして、人間の社会に組み込まれた犬は人間と共に生きざるを得ない。だから、人間は自らが社会に組み込んだ犬の面倒を最期まで見る義務があるのだ。ましてや、犬神などと言う儀式で犬を殺すなどあってはならない。論外だ! これで父の後を継いで当代になれと言うならこちらから願い下げだ! 魔術師なんかにならなくてもいい! なにより…… 黒曜石は愛する俺の弟だ! 弟を殺せる兄がいようものか! 青年は肚を決めた。 「ごめん! 黒曜石! 俺が間違ってた!」 青年は黒曜石を胸に抱きしめながら全速力で中庭を駆け抜け、家から逃げ出した。 後先は何も考えていない。とにかく、黒曜石を犬神の儀式に捧げてはならないと言う一心のみが青年の心の中にあった。  数日後、首席大臣選が行われたのだが…… 結果は言うまでもなく現首席大臣の惨敗。正当な選挙の結果、外務大臣が新首席大臣になることが決まった。前首席大臣は敗北と共に、新首席大臣の人事刷新により役職なしの一議員となった。実質の左遷である。 与党内でも居場所がなくなった前首席大臣は屈辱に耐えることが出来ずに自殺。権力闘争に負けた者の惨めな末路であった。 新首席大臣であるが、度重なる増税や外交の失策などで「顔だけ総理」などと罵られ評判こそ悪いがなんとか政権運営を続けている。  青年の家の魔術師であるが、次期当代である青年の逐電により正当なる跡継ぎがいなくなったことで、消滅に至った。 千三百年、我が国の黒幕(フィクサー)であった魔術師の消滅により占術による国家運営から開放されたのである。その事実を知る者はこの国には殆ど存在しない……
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