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3/ハイツノイノシシ
首都にある、ヘラペーの修道院にミドラ殿を送り届け、王からの拝命を賜り、装備を整えて街を出たのは、チャルをスカウトしてから更に3日の後だった。
「うぅ……僕に、魔法を使わない乗馬技術があれば……」
女神の祠は世界の果てにある。魔法が使えないと、上手く馬にも乗れない俺は、チャルの操る馬の背に相乗りをするしかなかった。女子供みたいで屈辱的だが、これが一番効率の良い移動手段なのだから仕方がない。
「皆、魔法に頼り過ぎなんだよ。俺が馬に乗れるんだ、騎士団長様にかかれば、すぐに乗りこなせるだろうさ。要は、馬と信頼関係が築けるかどうかだろ」
「いや、しかしだな?」
そんな、一朝一夕に身につく技術ではないだろう。対話ができる人間同士でも、信頼関係を築くにはそれなりの時間がかかるというのに。
マントやテント、食料や路銀は王宮からの出資で用意したが、馬と鉈、小振りなナイフはチャルが自身の家から持ち出した。曰く、使い慣れないものは怖い、だそうだ。
「覚えておいて、損はないと思うけどな」
「まあ、それは……」
首都から離れれば離れるほど、集落は減り、森林が増える。半日ほど前に通過した集落を越えれば、次は、人間と妖精のハーフたちが集まって暮らす村まで里はない。その里も、今日中に着けるかどうか、くらいだろう。それまではしばらく鬱蒼とした森林が続く。と。
「……魔獣だ」
唐突にチャルが呟いた。慌てて周囲を見るが、周りには静かな森が広がるばかり。
「……いないじゃないか」
「いや、いる。こちらの様子を窺っている」
降りるように促したチャルが、馬の背から降りる。そのまま手綱を離されれば、今の僕に操縦技術はないし、チャルは僕を降ろす気満々で袖を引いている。仕方なしに渋々、馬の背から降りた。
「何で降りるんだ。馬で突っ切った方が早いだろう」
「無理だ。大人の男をふたりも乗せた馬が、魔獣を振り切れるわけがない。初手から馬を失うわけにはいかないし、こいつはウチの家族みたいなものなんだ、怪我をさせたくはない」
「だからって、降りれば、魔獣の餌にしかならない」
馬の尻を軽く叩いて手綱を離したチャルが苦笑する。馬は森の奥へ駆けて行った。それを見届けて、チャルが腰の鉈を手に取る。
「そりゃ、勿論。――戦うに決まってるだろ!」
鉈を右手に握り、その背に軽く左手を添えたチャルは、大きく足を開いて腰を落とす。睨んだ先の藪は、何の変哲もない低木の茂み、だが。
「ハイツノイノシシだ!」
少し奥の茂みが揺れた、と思った瞬間、目の前に特大のイノシシが飛び出してきた。牙や角や骨が魔法の材料になるが、非常に気性が荒く、大きなものは成人男性の背丈をゆうに超える。その、僕らの背丈をゆうに超えた大猪が、そこにいた。縄張り意識が強く、侵害する生物を、額の大きな角で突き上げ、弾き飛ばすという。
「下がってろ、ハイン!」
思わず剣を抜き、使えもしない魔法を使おうとした僕をチャルが叱責し、ハイツノイノシシに飛び掛かっていく。鉈一本で。
「しかし! こんな大きな魔獣、いくら何で……も……?」
無理だ、逃げよう、と提案しようとした僕の言葉は、途中で途絶える事となった。チャルの振り回した鉈が、大角の下、イノシシの眉間に深々と叩き込まれたからだ。それを引き抜けば、大量の血が噴き出し、鉈一本で付いた傷とは思えないほど深く、切り裂かれた肉も見えた。
「っせーいッ!」
突進を止めた猪から一歩を退いたチャルが、再び鉈を振り回す。今度は、硬そうな毛皮に覆われた首筋に。それがとどめになったらしく、振り回された鉈の勢いに押されるかのように、イノシシが倒れた。鉈を抜いた辺りから、生臭い血が流れ出している。
「やっ……やった、のか……?」
「恐らく。ハイツノイノシシは、角の下が弱点で、毛が薄いんだ。たまに村の罠にかかったのを、皆で解体して食料にしていた。さすがに、ここまで大きいものは初めてだけどな」
「……食べる!? これを!?」
「美味いぞ?」
驚愕する僕の様子に気を良くしたのか、チャルはニヤリと笑った。
◆
「というか、騎士団長様が首都を離れて、女神探しをしていても大丈夫なのか?」
魔獣を解体して、食べるに良さそうな部位を切り取って包み、馬を呼び戻して先を進んだものの、今夜は野宿となった。「ちょうど良かった」なんて言いながら、焚火を囲み、魔獣の肉を食べながら雑談をする。
「副長以下、ウチの騎士団員たちは優秀だからな」
特大のイノシシだったので、大味で筋張っているのかと思っていたが、案外、脂が甘くて美味しい。特に引き締まったモモ肉は、歯ごたえも良く絶品だった。
「なら、俺じゃなくて、部下を引き連れて行けば良かったじゃないか」
「今の世界の状況で、首都の防衛は、極力、減らしたくない。だからといって、国の威信がかかる女神の説得にも手は抜けない。そう考えれば、こうするのが最も効率的だったんだ」
「……なるほど」
実際、女神の説得に失敗すれば、己の立場や命は勿論、国がひとつ、無くなる可能性すらある。その前に、魔王が世界を牛耳るのが先か。
「そもそも、貴族階級の奴らは、こういう任務も、彼らが言う所の、下々の者と関わる仕事もやりたがらないし、本当に重責のかかった仕事からは、積極的に逃げようとするから、そういうのは全て僕らに回ってくる」
森で野宿をする時は、夜通し火を熾しておかないと、夜行性の魔獣に襲われる。それは知っているのだが、魔法が使えない状況から火を熾す方法が分からず、結局はチャルにやってもらった。肉を焼くために刺す串を作るにも、魔法の効果のかかっていない刃物が上手く使えず、チャルに呆れられながらやってもらった。つくづく情けない。
「お前も貴族出身なんじゃないのか? 騎士団長様なんだろう?」
「僕? 僕は首都にある商家の四男坊。貴族なんぞには縁が無いよ」
平民出でも騎士団長になれるのか、とチャルは感心している。魔力がない時点で、最低限の教育以上の勉強はできなかっただろうから、世間には少し疎いのかもしれない。
「騎士団は、お飾りの特別部隊と、それ以外の実働部隊に別れていて、実働部隊は、試験と審査を通った平民しかいないんだ。その頭は、実働部隊の中でも一番隊の隊長を務められる人材を登用する事になってる。貴族でもない一般人が成り上がれる、数少ないチャンスなんだ」
「そのチャンスを掴んだのが、お前、ってわけか」
「まあな」
パチリ、と薪が爆ぜる。少しだけ沈黙が流れて、僕が口を開く。
「そう言うお前はどうなんだ。祖母とふたり暮らしと聞いているが、両親は?」
「知らない」
「は?」
焚火を見つめたまま、チャルが言う。
「ミドラ婆は、実の祖母じゃないんだ。拾った、って言ってた」
「そう……なのか……。聞いて悪かった」
「や、親が誰であれ、ミドラ婆に育ててもらった事は変わらないしな」
きっと、この事は、彼らの間では当たり前で、もう過ぎた話なのだろう。ミドラ殿とチャルの間に血が繋がっていない事も、チャルに魔力がない事も。
「魔力がないなら、苦労したろう。お前も、ミドラ殿も」
その立派な体格は、魔力に依らない生活の末に整ったものかと思って聞けば、チャルは「そうと言えばそうだが、そうじゃない、と言えばそうかな」と首を傾げた。
「魔力がない分を補いたくて鍛えた」
「えぇ……だからって、ここまで鍛える必要がどこに……って、なんだコレ、何を食わせた……!?」
焼いた肉にしては歯応えがなく、モッタリとした、奇妙な食感の肉に驚いてチャルを見れば、彼は小首を傾げて「睾丸だけど?」と返してきた。
「栄養価が高い。村だと、男たちの間で取り合いになるくらいだ」
「ぇ……マジか……ぅえ……」
「もう片方も食うか?」
「や……いらな……いらない……」
火の粉が忙しなく夜空に上っていく。木々の隙間からは、星空が覗いていた。
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