休日マガジン

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 昨夜の豪雨がうそのように雲ひとつない晴れ渡った日曜の朝。しずくは、パ ジャマのままキッチンからベランダ出て伸びをひとつしてからラジオ体操よろ しく、肩幅に足を開き、左手を腰に当て伸ばした右手を左に大きく倒して脇を 伸ばした。少し反動をつけて5回。反対側も鏡映しのように同じことを繰り返 す。そして両手を腰にあてて今度は後ろに反るのをぐぐーっと10秒間。体を 起こして大きく深呼吸を3回。それだけやってキッチンにもどって、2枚入る トースターにトーストを1枚入れて焼く。  この朝ののびのび体操は二人で手を握ってひっぱりあいながらやっていたの に、今は一人。トースターも両サイドフル稼働だったのに、今は片方だけが変 化なくトースト焼きを続けるもののもう片方は無駄な燃力をむなしく使うだ け。  朝食を食べているテーブルの向い側にはだれも座らない椅子の背があって、 その向こうにさっき体操をしていたときと同じ、ベランダからの景色。  同棲していたかなめが出て行ったのは2年前。しずくはそれから外から見た らなんの変哲も問題もないようだけど、ずっと同じ歌の最後から2小節目まで は繰り返し、繰り返し流しているような生活を送っている。  最後の1小節目の寸前で不自然にまた最初に戻ってはまた尻切れトンボのま んまを繰り返す。 「洗濯でもするかぁ」  月並みなことを思って、パンくずだけになった皿を片づけて、マグカップに 1/3残っている冷めたコーヒーを啜りながら洗濯機を回す。洗濯機を回してい る間に古新聞を床に広げて、足の爪を切った。  洗濯機が回る音、パチンパチンと爪が切り落とされていく音、つけっぱなし のテレビからの笑い声。先週も一年前も、二年前もそのもっと前からも変わら ない日曜日の朝の音。    爪を切りながら、足の下にある古新聞の記事をまるで新しいニュースかのよ うに読んでいるとき、一か所の囲み記事にある活字の塊にアンテナが反応し た。 「うそ、かなめ?」 そう言って目を向けている先は、しずくの爪が切り落とされた下にある連載中 のコラムだった。人気ブログがそのまま記事になったもののようだ。 『すすめ健康志向』Vol.7  マンションにしか住んだことのない僕の憧れは、庭の物干し竿に干された洗濯物の影に隠れながら、毎朝ラジオ体操をすること。洗濯干しが終わった奥さんがつっかけを履いたまま縁側で微笑ましそうに僕の体操を眺めている。そして、ラジオ体操の伸びの部分になったら、僕は縁側に腰かけた奥さんを立たせて両手をつなぎ合い、ふたりでストレッチをするのだ。実に健康的な憧れだと思う。これは夢とは呼ばない。憧れだ。そもそも夢と憧れとの違いは・・・  と続いている。筆者は〈休日マガジン〉。なんだか何を狙っているのか分か らないペンネームだ。かなめの「か」の字も出てこないが、これはかなめが同 棲中によく言っていた戯言で、物干しざおのある庭ではできない代わりに、せ めてベランダでやろうと二人でのびのび体操を実行してきたのであった。  だから何? というこの文章が新聞に掲載されるほどの人気の原因ではない ようで、〈休日マガジン〉はおいしく満腹になれるダイエット食のレシピをブ ログに写真付きで載せているところが、受けているようなのであった。 もちろん新聞にもレシピが写真付きで載っている。この日のレシピは、かぼち ゃの煮物。なんてことないじゃないか? と思ったら砂糖にはノンカロリー甘 味料が使われ、そのうえにヨーグルトソースがかかっていた。 「まずそうだ・・・」  としずくは思ったが、かなめが無類のヨーグルト好きだったのを思い出し た。  たまたま爪切りの下敷きにした新聞の日付は、ちょうど1か月前。このコラ ムが掲載されているのは、隔週の日曜日らしい。Vol.7ということは、4か月 前から掲載されていたことになる。古新聞は1か月以上とっていないが、Vol. 8とだったらあるはずだ。2週間前の新聞を探し始めた。 『すすめ健康志向』Vol.8 僕の場合体調が悪い時はその症状が腹痛だろうと頭痛だろうと疲労感だろうと、とりあえず熱を計ってみる。僕の平熱は35.98度。これよりも0.01でも高かったり低かったりしたら慌てることにしている。だが、平熱の35.98度だったらなんだか安心して、体調が悪いのも気のせいだという気がしてくる。このときのポイントは婦人体温計を使うこと。婦人体温計だと小数点第二位まで測れるから・・・・  と続いている。そうだった。かなめの平熱は35.98度。そしていつも大 袈裟なんだよな~、と思っていたが乗り物酔いでも二日酔いでも、寝起きが悪 かったときもすぐに熱を測る。測るときはいつもしずくの婦人体温計を使って いた。 「あれ? 婦人体温計どうしたっけ」  いつから見かけていないか覚えていないが、1年以上見かけていないような 気がする。しずくは基礎体温表をつけるどころか、風邪のときだって滅多に熱 を計らない。熱っぽいと思ったら病院に行くまでだし、病院に行ったら必ず待 合室で熱を計りながら待たされるからだ。  救急箱を見てもペン立てを見ても、洗面台を見ても、キッチンの箸にまぎれ ていないか見てもどこにもなかった。 「やっぱ〈休日マガジン〉はかなめなのかな」  確信に近くなってくる。  そもそもかなめとの同棲は、かなめがアパートの家賃を滞納しているうえ に、居酒屋のアルバイトも店長とうまが合わずに喧嘩してクビになったところ を、その居酒屋に常連だったしずくのマンションに転がり込んだのが最初だっ た。  一言でいうと几帳面なだらしのないやつだった。転がり込んだときは、1か 月以内にいなくなると思っていたが、居心地よさそうに居座りつき、家事を一 手にひきうけることを条件にしずくが生活の面倒を見てやった。が、半年たっ たある朝メモをテーブルに残し、こつぜんと消えていた。 “お世話になりました。高菜チャーハン作ったの冷蔵庫にあります”  どういうわけだか分からなかったが“お世話になりました”の言葉に別れ以 外の何も隠されてはいなかった。あの高菜チャーハンはしょっからい涙の味だ った。最後の一粒まで食べてしまったらもう二度とこの味に出会えることはな いのだろうと思うと、胸が詰まった。あの日から一度も高菜チャーハンはおろ か、チャーハンを食べていない。捨て猫のようなかなめとの半年間の同棲の末 の傷は2年間たっても癒えることはなかった。 「あ、そうだ。今日は、Vol.9が掲載されているはずだ」  しずくは掲載の隔週にあたるのが今日だと気づき、パジャマにカーデガンを はおってマンションの住人の誰にも会わないことを願いながらダッシュでポス トまで行き折込チラシがどっさりはさまれた新聞を胸に抱えながら部屋に戻 り、一目散に掲載ページを開いた。 『すすめ健康志向』Vol.9  僕のブログを見てくれた人が僕のレシピで作った料理の感想をくれたので、ここでどんな感想をもらったのか書いてみます。 ・なにこれ? と思ったら案外おいしかった。 ・ダイエットになるの? と思ったら3kgやせた!すごい! ・めんどくさそう・・・と思ったら10分もかからなかった。結構簡単なんですね。  などなど。こんな風な「思ったら違かった系」の感想ばかり毎日くる。僕自身ももしかしたら「思ったら違かった系」の人間なのかもしれないとふと思った。奥さんにもよくそう言われる・・・・    と続いている。 〈奥さんにもよくそう言われる〉と印字された部分で思考がストップした。  Vol.7で〈奥さん〉が出てきたときはそんな夫婦生活をいつか誰かと送りた いという憧れで、〈妻〉という存在の〈奥さん〉は匂わなかったからまったく 気にしなかったが、ここに出てきた〈奥さんにもよくそう言われる〉は、紛れ もなく〈妻〉がいるということだ。  かなめに奥さんなんているの? 捨て猫みたいだったかなめに?  もう2年も前に出て行ったのに、今更ながらに動揺が走る。目眩さえ覚え た。  いつそんなことになったんだろう。やっぱりどこかに転がり込んだの? 私 のところを出て行ってすぐ? それとも最近?  しずくの一時停止した思考が再生をスタートすると、今度は止まらなかっ た。止まらないどころか、この2年間繰り返し繰り返し最後から2小節目で振 り出しに戻ってしまっていた歌の最後の1小節まで流れきってしまったかのよ うだった。ジャーン・・・最後の和音のエコーが耳に残り、その後は静寂がし ずくの心を包み込んだ。  こんな平和な台風の去った日曜日に〈休日マガジン〉は大変なものを落とし て行ってくれた。コラムの最後に、休日マガジンのブログはこちらです、とあ りURLが記されていた。  しずくは、ホコリをかぶったノートパソコンを開けて、電源を入れ、画面が ゆっくりと変わるのを涙目に待った。 URLを一字一字確かめながら打ち『すすめ健康志向』のトップページが現れ る。プロフィールのところを見ると生年月日などはなく、「料理好きのひもで したが、めでたく主夫になりました。ブログが○○新聞に掲載されています」 とあった。  プロフィール写真は料理をしている後姿で、顔は見えない。 「ちがう」  しずくは、その写真で別人だと確信した。しずくが見てきたかなめの料理を する後姿とは別人だった。背格好はそっくりだが、顔を見なくてもわかる。 かなめは両理をするときはいつも長めの髪を無造作にうしろで結わえていた し、エプロンなんかつけなかった。この写真に写っている〈休日マガジン〉は 短い髪で、まるで新妻がつけるような小花模様のエプロンをつけている。 「ちがう、ちがうんだ。ちがかかった」  しずくは言い聞かせた。言い聞かせたとたんにしずくは、かなめと別人なの にこんなに似ている〈休日マガジン〉に親近感を持ち『すすめ健康志向』をお 気に入りに登録した。 「これでかなめにいつも会っている気分になれる♪」  急に元気になり、最新日記に書かれたレシピの材料をメモする。メニューは 高菜チャーハンだった。 「休日マガジン」  真名耀子
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