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「発明について話をしましょう」
彼女はおもむろにそう呟いた。先の赤い杖を持つ手は、少し震えているように見えた。
「世界一の発明家って、一体誰だろう。やっぱりエジソンかしら。それとも、ベル。ライト兄弟かも」
僕は彼女の言葉を聞く気にはなれなかった。僕も彼女も、世界一の発明家が誰かくらい知っている。彼女は口を止めない。
「世界一の発明家は、嘘を発明した人だよ」
そう言って息を吐く。笑ったのか、小さなため息なのか、僕にはわからなかった。
「事実とは異なることを言う。ただそれだけのことが、人類に、社会に、文化に変革をもたらした。ときには人を傷つけ、またときには人を守り」
もう何の像も映さないその眼で、彼女は空をあおぐ。
「あなたの嘘は、私を傷つけた」
僕はただコンクリートの床を見つめていた。空いた左手で、ベンチの手すりを撫ぜる。
「それでも」
重い口を開け、僕は言う。
「それでもあの日、君に必要なのは虹だったんだ。曇り空なんかでは、決してなかった」
彼女はもう、何も言わなかった。軒の向こうではゆるやかな雨が、静かに地面を叩いている。
希望は、もう無い。あの橋からはもう二度と、虹が見えることはない。
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