最終話 これが、私の、生きる、道!

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 次から次へと、襲いかかる衝撃に、脳が追いついて行かない。  思考停止状態で、目を見張ったまま、固まっていると、 「今すぐ、返事はしないでくれよ。ドキドキしながら待つ楽しみを、奪われたくないもの。だから、よく考えてから、返事を聞かせてくれ」 と、微笑みながら、言った。  …どうしよう。  考える事が多すぎる。  飛鳥井先生は、本気だ。安易な結論は出せない。  その後、飛鳥井先生と別れて、ボーッとしているうちに、いつの間にかアパートに戻っていた。  部屋に入って、床に倒れ込む。手足を伸ばして、大の字に仰向けになる。 「伊南…」  声に出して、呼んでみる。  結婚をやめたのなら、何で、そのことを私に言わないのか。もう、私との事は、終わったものと決めているからか?  この前、飛鳥井先生との事を、聞いてきたのは、そうあって欲しいという願望からなのか?私が、他の人と幸せになれば、自分も晴れて婚約者と結婚できるから。 「もう来ないで」と、拒絶した。キスをされて、突き放した。  だから、もう近づかないことにしたのか?  …答えが欲しい。  翌日の日曜日、車に詰めるだけの荷物を持って、実家に向かった。少しずつでも運んでおけば、後が楽だ。  途中、ふと思い付いて、八幡宮に寄ってみた。あの正月の大会以来だ。弓道場から、的を射る音がする。『八幡弓道会』が練習しているようだ。ちょっと、覗いてみたくなった。  白の道着に黒の袴姿の、老若男女の面々が、射場で練習に励んでいた。邪魔をしないように、物陰からそっと見る。  ちょうど、的前に立って、矢を番えた男が目に入った。  片肌を脱いでいる、長身の男性。長い手足が優雅に流れる。弓を引き絞ると、肩の筋肉が躍動する。的を見つめる鋭い眼差し。  …伊南だ。  矢の先が、ピタッと静止する。時が止まる。  首筋に、汗が光る。  放たれた矢が、風を纏って、髪を揺らす。  次の瞬間、スパンっと快音が響き渡る。  矢の行方を見届ける、端正な横顔。  静かな所作で、弓を下ろす。  なぜだろう。  私の目から、涙が、一筋、零れた。  気付かれないように、そっとその場を後にした。  弓道場の後ろを通って、駐車場に向かう。  木立を通り抜けようとした時、後ろから名を呼ばれた。 「朱音!」  振り向くのが、怖かった。立ち止まって、足元に視線を落とす。 「伊南、何でここにいるの?」 「正月に、ここでお前の姿を見て、思い出した。始まりは、これだったって。あの後、五十飼さんに頼んで、入会した。…静かに自分と向き合う時間が欲しかったんだ」  ゆっくり、振り向く。  …ああ、伊南だ。心がさざめく。跳ね上がる心臓の音が、聞こえないように、抑えていることが辛い。 「俺、咲良と結婚しないよ」 「…何で、黙ってたの?」 「この間、言おうとしたんだけど、言う暇がなかった」  お前が、先にキスしたからだろうが!馬鹿! 「それで、何なのよ」  やや強い口調になる。 「…お前が、好きなんだ」  真っ直ぐに、顔を上げて、伊南を見る。 「咲良さんが結婚しないと決めたから?だから、私に戻るの?」  伊南の表情が歪む。 「また、別の人を親が勧めたら、それに従うの?」  伊南の思いは、咲良さんから聞いた。でも… 「別れよう、と言ったのは私よ。でも、それは、伊南が私を選ばなかったから」  そうなのだ。それが、ずっと心にあった。 「親の期待や、約束や財産やしがらみを全て捨てても、私が欲しいと思ってなかった」  飛鳥井先生のように。 「どうして?」  伊南に問うてみた。答えを期待してはいない。でも、聞かずにはいられなかった。 「…自信がなかった。お前は、一言も『好きだ』と言わなかったから…」  それは、お互い様だ。好きと言って『そんなつもりはなかった』と言われて、関係が終わることを恐れていた。心をあけ渡すことができなかった。…恋することに、臆病だった。 『男も女も 恋というもの 身を(かば)うて成るものか』  いつかどこかで、聞いたセリフの意味が、今、身に沁みる。  私達は、お互いに、傷つくことを恐れて、相手ときちんと向き合うことを避けていた。だから、大きなツケが回ってきたのだ。 「伊南、私達は結局のところ、ここまでなのよ。これ以上、どうにもならない」  伊南を見つめる。二人の間の距離が、縮まらない。伊南は動かない。 「さよなら…」  私は、背を向けて、歩き出した。 「朱音!」   立ち止まったが、振り向かなかった。 「それでも、お前が、好きだ。多分、一生、お前だけだ。一緒に生きられなくても、それでも好きだ…」  振り向く事は、簡単だ。でも、しなかった。  そのまま歩き出す。    伊南は、追いかけて来なかった。
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