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手の中の温もりが消えてからも、他愛もない話をし、遠回りに遠回りを重ねた帰り道はまだまだ続いていた。
さすがに脚が疲れて、エメラダは橋の上で歩みを止めた。ふと目についた欄干には、銅線編みの花が飾られている。中に燭台が確認できた。ここに火が灯る、春祭りの夜はさぞ美しかろうと思い浮かべ、エメラダはうっとりとした。空想した宵の橋には、豊穣の女神が微笑んでいる。
スフェーンは多神教国家だ。世界をお創りになった主神の下に豊穣の神、武の神、知識の神と……市場に軒を連ねる店さながらに御用向きに沿った神々が存在する。その宗教観に初めは戸惑ったエメラダだが、人々の暮らしを学ぶうちに、国が変われば神も変わるのだと受け入れていった。そしてそれが改めて、己はただの人間なのだとの思いを強めるきっかけとなった。
「フェイ、知っていますか? 春祭りの面と舞のこと」
川面を揺蕩う水鳥を見ていたフェイは、茶鼠色の目を僅かに彷徨わせてから、エメラダに向き直る。小さく頷く様子だ。
「それでは、わ……わたしとっ……! 揃いの面を付けて、踊ってくれませんか!」
長いこと遠回りしたが、やっと言えた──!
だが本当に勢いだけで言ってしまった──!
達成感と羞恥心の狭間で、エメラダは急激に顔が火照り出して、汗さえ滲んだ。フェイを直視できず、足元を見下ろしていたら、ぼそぼそとした答えが返ってきた。
「……できない、です。俺は、踊れない」
「舞が? ステップはなんでもいいんですのよ」
「違います。貴女とは、踊れない……です」
高揚して高鳴っていた胸が、大きく一跳ねしてどくどくと不穏に脈打つ。火照った頬から熱が引き、冷たい汗がエメラダの首筋を撫でた。
フェイは嘘をつく人間ではない。エメラダはそう信じている。それなら、これが彼の答えだ。
恥ずかしそうに頷いて手を取ってくれる彼の姿を、頭の片隅に想像していたエメラダは、驕っていた自分自身にひどく痛めつけられた。
ぐっと涙をこらえて、フェイを見上げると、彼はまた川面に視線を戻していた。
「……わたし、と踊れないのに、一緒にいてくれるのはどうしてですか? アルに、頼まれたから?」
「そうじゃないんです。貴女は、あの子たちと同じだから……」
橋の下の水鳥を指差し、フェイは眼差しに憂いを深めた。
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