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繊細な指先
1 繊細な指先
「行ってらっしゃいませ、杉本様」
柔和な笑みを浮かべながらお辞儀をすると、客人は満足したように頷いた。
ホテルにとってチェックアウトの時間帯が一番混みあう。ざわめく人のなかでも大理石のカウンターに阻まれたウチとソトでは空気がまるで違う。
フロントに立ちながら恭介は自身の仕事をこなしつつも周りへの目配りも忘れない。素早くロビーへと視線を流しつつ、トラブルや困っている客人がいないか細心の注意を払う。
それを感じさせない笑みと優雅な仕草は恭介にとって一番得意とするところだった。
昔からその優れた容姿と柔和な笑みでなんでも乗り切れた。
モデルかと見間違うかのような端正な顔だけじゃなく、しっかりとした体幹に支えられた長身はスっと芯が通っていて美しい。
ビシリと決めたヘアスタイルはどんな動きにも乱れることはない。
ホテルマンの鏡ともいえる恭介に対応してほしがる客人は多く、その列だけがやけに長かった。
10時を過ぎ、ほっと一息をつく頃にも恭介の笑みは絶えず、にこやかにスタッフに向けられた。
「交代で休憩に入りましょうか。お先にどうぞ」
「は、はい♡」
毎日顔を合わせているのに恭介に笑みを向けられた女性スタッフはポーっとした表情を浮かべ、足取りも覚束ないようにバックヤードへと引っ込んでいった。
残された同僚の笹屋はふたりきりになると「なあ」とフロントマンの顔を崩さないまま身をすり寄せてきた。
「この前の結婚式どうだった? 可愛い子いた?」
「結婚式……」
「ほら、友達の結婚式があるって言ってたじゃん」
「ああ……」
恭介の頭の中に一連の事件がまざまざと思い返された。
大学の友人である新郎の幸せをからかいながら楽しい時間を過ごしていたはずなのに、二次会へと向かう途中に降りかかった災難。
忘れてしまいたいのに強烈すぎて忘れられない出来事。
あれはホテルでの披露宴から二次会会場へと向かうエレベーターがはじまりだった。
真っ赤なドレスのドラァグクイーンを遠巻きに見ていた客人たちは奴と乗り合わせるのを拒むようにそっと退いた。
ふたりきりのエレベーター。害があるわけじゃないし、と気楽に考えていたのがそもそもの間違いだった。
上昇するエレベーターの中で奴は体調が悪そうにしゃがみこんだ。
無視すればよかったものを、ホテルマンスピリットが体中に染みこんでいた恭介は思わず声をかけてしまったのだ。
「大丈夫ですか」と。
真っ青な顔色でなかなか立ち上がれない奴は小さく首を振り、そっと自室のカードキーを手渡してきた。
「ごめんなさい。少しドレスが苦しくて」
そりゃそうだろうよ。なんでそんなにボディラインがしっかりと出ているタイトなドレスを選んだのよ。自分の体のデカさをわかってる? と言いたいのを笑みの下に隠して、同情の視線だけを送った。
「お部屋までお送りしますよ」
なんて、言わなきゃよかったのだ。
まさかあれが罠だったなんて考えもしなかった。
自分より大きな体をなんとか部屋まで運び、しおらしくしていたあいつの思うままベッドまで運んで組み敷かれた。
30年近く生きて来て、男に伸し掛かられるなんて初めての体験だった。
「うそだろ……」
やめろといってもキスの嵐は止まらず、しまいには人の首筋の匂いを嗅ぎ始める。ああ、思い出しても気持ち悪い。変態すぎる。
恭介はブルっと身震いをすると「忘れた」とだけ答えた。
「思い出させないでくれ」
「えっ、何々。気になるじゃん、教えてよ」
「絶対に嫌だ。もう二度と結婚式に参列はしない」
必死に逃げ切ったからよかったものの、あのまま意識を失っていたら今頃純潔は奪われていたかもしれない。
何が「好きになった」だよ。ふざけんな。
好きになったから何をしてもいいなんてことがあるか。
忌々しい口調なのに恭介のスマイルは隙のないくらい完璧に仕上がっている。
「とにかくもう聞かないでくれ。式自体はいいものだった。幸せそうでこっちまで嬉しくなった。だけど」
ギリイっと笑顔の下の歯を食いしばる。
あいつにはもう二度と会いたくない。でももし次があったら絶対に許さない。
「うわ~めっちゃ気になる。聞きたいけど、まあお前が言わないって言ったら絶対言わないんだろうな」
「そういうことだ。あ、電話」
フロントの業務は見えないところでもけっこう忙しく、慌てて仕事の顔を作った。
もうあんな災難は忘れるのだ。
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