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電話は来週から始まるスペシャルランチについての問い合わせだった。
丁寧に受け答えをしながら手元にある資料に目を走らせる。
それは星のつく有名レストランとのコラボ企画だった。一週間だけそこのシェフを呼んでの限定ランチコースを味わえる。
なかなか予約の取れないフレンチを、それこそ同じ数の星がついているこのホテルで手ごろな価格で楽しめる。
それは話題が欲しい顧客たちを喜ばせ、問い合わせが次々と舞い込んでいるのだった。
「そういえば今日だよな」
電話を切った恭介に笹屋は嬉しそうに話しかけてきた。
「行くだろ、試食会」
「まあ、誘われたからな」
「なんだよ。予約の取れないフレンチだぞ。それを試食できるって言うのになんでめんどくさそうなんだよ」
本番を前に試食会があると、恭介や笹屋のような一流の社員だけがシークレットで招待を受けた。
普段口にすることのない高級フレンチだぞと笹屋は興奮しているけれど、恭介にとってはそこまで魅力的でもない。まあ、仕事の一環として参加はするけど星がつくのがそれほど偉いのかね、と心の中で思っている。
「楽しみだな。早く夜にならないかな」
素直な笹屋を羨ましそうに見つつも、それをおくびにも出さない恭介は「そうだな」とだけ答えた。
仕事を終え私服に着替えてレストランに向かうとそれはもういい匂いが漂っていた。
その日のレストランの客人たちは自分たちが食事をしている裏で豪華フレンチが用意されているとは考えもしなかっただろう。
広い円卓には恭介たちだけではなく、広報や営業、本社のお偉い人たちなど普段お目にかからない人たちも席についている。
誰もが和やかな雰囲気でいるけれど、みんな凄腕のホテルマンたちなのだ。
思わず背が伸びる。
隣に座った笹屋もさっきまでの浮かれ具合はどこに行ったのか、無表情で固まっている。
「お待たせいたしました」
真っ白で清潔なシェフコートを着た料理長がシャンパンを運んでそれぞれに注いでいく。
小さく可憐な泡が浮かんでいく細身のグラスは見るからに美しい。
「お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。今回のコラボメニューはtressaillir de joieの副料理長日永蒼くんに全面協力いただきました」
と、ワゴンに料理を乗せながらでていたのは大きな男だった。みんな呆気に取られて彼を仰ぎ見ている。
「でけ」
ポソリと呟いた笹屋の足をドンと蹴った。
「日永です、どうぞよろしくお願いいたします」
口数が少なそうな男はすっと綺麗なお辞儀をしてみせた。さすが名のあるレストランの副料理長だけあってマナーはしっかりしている。
日永は背が高いだけではなく恰幅もよさそうで、シェフコートを着ていても中の筋肉が存在感を隠し切れないでいる。
切れ長の瞳は少し冷たそうで、緊張しているのかこわばった表情のままこちらを見渡している。
あの時のとんでもドラアグクイーンもでかかったけど、この人も同じように大きい。確かに筋肉ブームっぽいし、思っているよりマッチョな男はいるらしい。
「ではアミューズから」
レストランスタッフたちが緊張した面持ちで料理を運んでくる。
真っ白なお皿の上に一口サイズの小さなレンゲが乗っていた。そのひとつひとつにエビやホタテなどの海産が口当たりの良いスフレなどと共に乗せられている。
まわりには花が咲き乱れ、まるで花畑の妖精たちの食事のような雰囲気だった。
「そちらのエディブルフラワーは食べられますのでもし聞かれたらyesとお答えください」
さすが有名フレンチの味だった。
どれもが違う触感で違う味。次は何だろうとワクワクした気持ちにさせられる。
そして前菜、メインは魚か肉を選んでもらい、パンかライスが提供される。締めは冷たいジェラートのあとにデザート、ドリンクというコース内容だった。
上司たちに勧められるままワインを頂き、デザートまで終わったころにはもうかなり遅い時間帯だった。
「ご満足いただけたでしょうか。こちらはランチということで簡易メニューになっておりますが、量、質ともに自信を持ってご提供させていただけると思います」
料理長の挨拶には拍手が起こった。確かにこれをランチで頂けるとしたらメインの客層であるマダムたちにはかなり満足していただけるだろう。
「では来週一週間、よろしくお願いいたします」
最後のあいさつを終えた日永は安心したのか、ふと笑みをこぼした。途端目じりは柔らかくほどけ、急に柔らかな表情になる。さっきまでの緊張が伝わるような安堵した顔つきに恭介はつい声をかけてしまった。
「フロントの平野と申します。とてもおいしかったです。毎日ランチの問い合わせが来ていてかなり期待されていますが、この料理ならご満足いただけると思います」
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いいたします」
手を出され握手をすれば、力強く握られた。この太い指からあの繊細でメルヘンチックなアミューズが出てきたのかと思うと微笑ましい。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
間近で見る日永は凛々しく男前な顔をしていた。強面そうなのに目の下にある二つのほくろが少しだけ色っぽい。
握手を解く瞬間スルリと甲を撫でる指先が記憶の何かに触れたけれど、上司に呼ばれすぐに忘れた。
日永が視線を流し続けていたことなど、恭介に知る由もない。
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