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日永と別れフロントにもどるとちょうど最上階に留まっているお客様から通話が入った。
上顧客ということで恭介が対応に回る。
「小椋様、フロント平野でございます」
出るともったりと甘いしゃべり方が受話器から聞こえてきた。
「恭ちゃん? よかった、あのねシャワーの出が悪いから見て欲しいの」
「シャワーでございますか。ただいま参ります」
彼女は何度もこのホテルを利用してくれるお客様で有名開業医の奥様だった。夫と同伴することもあるけれどほとんどがひとりでフラリと泊りに来て、恭介を気に入っている。
他のフロントに声をかけると足早に部屋へと向かった。
チャイムを鳴らすとすぐに彼女は顔を出し「こっちこっち」と中へ入るよう促した。
シャワーを浴びようとして気がついたのか、バスローブ一枚だけを羽織ったまま手招きする。
「これよ、見て!」
「失礼いたします」
ドアが閉まらないようドアストッパーを挟んでから入室した。そして念のためフロントに連絡をし、これからシャワーの様子を見るからと伝える。
「なによーそんなに警戒しなくてもいいじゃない」
「申し訳ございません。規則なものですから」
お客様の部屋の中でトラブルになった時にどういう過程でどういう判断に至ったのかあからさまにしておくのがホテル側を守ることにもなるのだ。もちろん自分も冤罪から守ってくれる。
「バスルームに失礼いたしますね」
靴を脱ぎ持参したスリッパを履いて中に入ると浴槽は全く濡れていなかった。シャワーを使った痕跡もない。
「小椋様、」
言いかけたその時だった。
背後に生暖かな人の体温がぶつかってくる。前に回された腕にバスローブの袖はなく足元に白い塊が落ちているのが見えた。
ちらりと鏡に視線をやると案の定彼女は全裸で恭介に抱きついているのだった。見なかったことにしよう。
「どうされましたか? お加減でも……」
「やだあ、恭ちゃん無粋ね。女からの誘いは断るものじゃないわ」
勘弁してくれ。
恭介は舌打ちをしそうになるのをなんとか堪えながら「申し訳ございません」と必要もない謝罪を口にした。
「シャワーの点検をさせていただきます。危ないので離れていてください」
「あら焦らすわね。わかってるくせに。恭ちゃんもわたしとこうなりたいって思っていたでしょ? いつも熱い視線をぶつけてくるじゃない。だからチャンスを作ってあげようかと思って」
おいおいおい。
勘違い以外の何物でもないよ。その目は腐ってるのか? いつどこでおれがそんな想いを向けたんですか?
そう言いたいのをぐっとこらえてどう切り抜けようかと頭をひねる。
「ではシャワーの調子が悪いとは」
「嘘よ。あなたを呼びたかっただけ」
言うなり彼女は腕を伸ばし、シャワーコックをひねった。恭介に向けたしぶきは最初は冷たく徐々に適温になって行く。
「あら。濡れちゃったわね。わたしもよ、さっきから」
言いながら絡めてくる足の間からはすっかり仕上がっているのかとろける蜜がしたたりはじめている。
「風邪を引くわ。脱いじゃいなさいよ」と言いながら人の制服のボタンに手をかけた。
「ね、いつでもいいわよ」
よくねーわ。全然良くないっていうかあなた痴女? これって訴えてもいい案件?
頭の中ではたくさんの暴言が浮かぶけれど、どう逃げたら問題にならずに済むのか計算が走る。どう考えても男である恭介の方が不利になるのは目に見えている。
そんな時、救いの音のように部屋のチャイムが鳴り響いた。と同時に
ためらいもなくドアが開く。
「お客様ルームサービスをお持ちいたしました」
「えー? ルームサービスなんて頼んでないけどお?」
彼女は苛立たし気にバスローブをはおるとドカドカと出ていった。
ホッとして力が抜ける。誰か知らないけど助かった。
あとについていくとそこにいたのは日永だった。食事を運ぶワゴンにドーム型のふたをかぶせた皿を乗せている。
「こちらをぜひお客様にと」
言いながら蓋を取り、現れたのは試食会で口にしたあのアミューズだった。色とりどりの花に囲まれた一口サイズの美味を思い出して、恭介は日永の顔を見た。
いつもより固くこわばった表情を押し隠すように彼は目元を緩め「こちらは御贔屓のお礼ということでホテルからのサービスとなります」という。
「あらっ。素敵じゃない。あなたここのシェフ?」
「いいえ。普段はtressaillir de joieにおります。ただいまコラボランチにてこちらにお世話になっておりまして、そのご挨拶もかねて」
日永の口にしたレストランの名前に彼女の機嫌は一気に直ったらしい。
「まあそうだったの。だったらシャンパンも頼もうかしら。見繕ってくださる?」
「もちろんでございます。ただいま」
そっと目配せをされ慌てたように恭介は動いた。
ホテルからこんなサービスをするとは聞いていない。でもこれで助かった。
「ではわたくしはこれで。後はよろしくお願いします」
「あっ、恭ちゃん一緒に食べないの?」
「ええ、ごゆっくりご堪能くださいませ」
お辞儀をして部屋から出るとどっと嫌な汗が出た。
お客様に誘われることはあるけど、あんな風にあからさまに迫られたのは初めてだ。
危なかった。
自分の理性は全然大丈夫だったけれどシチュエーション的にやばかった。
でもなんで日永が?
もし本当にルームサービスだったとしてもそれはホテル側がすることで、彼の仕事ではない。
もしかして助けてくれたとか?
考えてもわからない。
ドア越しに中を伺うとドリンクの銘柄を説明している日永の声が聞こえてきた。
低くて安心するような穏やかな声だ。
次は彼がターゲットにならないとも限らないので、ドアの前で張っておくことにする。
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