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十二月も二十九日になった。暮れが押し迫って、櫂が暮らすこの街もいよいよ人の往来がせわしない。界隈はどの家庭も段取りよく、この前日までに大掃除と正月飾りを済ませている。これからいよいよ正月料理の買い出しや準備にとりかかろうという、ちょっとひと息の昼さがり、櫂に街の婦人会から声がかかった。今年もいろいろな園芸指南でお世話になったから、集会場でちょっとお茶でも、というわけ。
櫂はこの街で暮らしながら、大学の理学教室で変化朝顔の研究をしている。大学までは歩いていかれる距離だ。学生が企画する催しもの――花見や夏祭り、秋の縁日に落ち葉焚き――に引っぱり出されることも多くて、いつのまにか街の人たちとも顔なじみになった。櫂がかかわる催しものでいちばん人気なのは、朝顔の仕立てについて講釈する「あさがお先生」。朝顔は種をまいて水さえ与えておけば、子どもでも簡単に花を咲かすことができる。しかしちゃんと仕立てようと思えば奥が深い。あさがお先生を繰り返すうち、ほかの園芸植物についても聞かれることが増えて、特にこの街の婦人会の面々からは「櫂先生、櫂先生」と親しまれている。
集会場へ顔を出すと、五、六人の婦人が集まっていた。母親についてきた女学生も数人いる。櫂はすぐにおしゃべりの輪に入れられて、しかし自分から何か話すわけでもなく、黄色いにぎやかなおしゃべりに耳を傾け、相づちを打った。
しばらくして女学生のひとりが、はにかみながら「櫂先生、これ見てください」と差し出してきたものがある。櫂は思わず感嘆の声をあげた。
「わあ、これはまた、見事に咲かせましたね」
女学生が持ってきたのは、シャコバサボテンの小さな鉢植えだった。
ふっくらとみずみずしい多肉質の葉の先に、鮮やかな朱色の花がすずなりに咲いている。櫂は、彼女がこの鉢植えを大事にして、花のない季節もまめに世話をしていたのをよく知っていた。冬枯れの季節、シャコバサボテンの花色は見ているだけで暖かい。櫂はそっと花に指を触れながら、女学生に笑顔を向けた。
「あなたがよくお世話をしたから、シャコバサボテンが喜んでいますよ」
「いえ、櫂先生が教えてくださったからです。去年はぜんぜん咲かなかったのに」
彼女は赤面しながらも嬉しそうだ。背後でふたりのやりとりを聞いていた女学生の母親が会話に入ってくる。
「櫂先生、うちの子ったら、先生にほめてほしくてお世話をがんばったんですよ」
「ちょっと、お母さん」
女学生がますます赤くなってムキになると、婦人たちがおかしそうに笑い声をあげた。櫂も苦笑いしたが、じつは、櫂も彼女にちょっと用事があった。あとでそっと目立たないように声をかけよう――そう思っていたら、集会所の玄関が勢いよく開いた。その場にいた全員の視線がいっせいに入口に向く。戸口に立っていたのは息を切らせた哉だった。
「みなさん、こんにちは。こちらに櫂さ……いえ、玉乃井先生がいらっしゃると伺いまして」
「は、哉さん」
櫂は驚いて腰を上げ、小走りに彼に駆け寄った。哉はいつもの学生服ではなくて、厚い外衣を着こんでいる。大きな鞄も提げていて、すっかり旅じたくだ。
「哉さん、どうしたの。列車の時刻は大丈夫?」
「ああ、櫂さん。櫂さんの家の前まで行ったら、お隣の小父さんがここだと教えてくれました。……ちょっと失礼」
哉は婦人たちにさわやかな笑顔を向けたと思うと、さっと櫂の腕をとって表に連れ出してしまう。背後で「まあ、あいかわらず仲良しね」とクスクス笑う声がして櫂は恥ずかしい。でも、思いがけなく恋人の顔を見られる嬉しさのほうが大きい。
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