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「あぁっ! くそ! またかよ!」
伸ばされた指がどうなったのかは、ジンさんの悪態で知ることになった。
れんがの上で。
受け身はとったものの、手による衝撃緩和をしなかった当然の結果として私は背中を強打していた。少し離れたところでは地団駄を踏むジンさんの大きなスニーカーが見えた。その振動までずきずきと痛む背中に伝わってくる。
「あと数センチだっつーのに!」
「ごめんね」
からりとした声に私は反射的に両手に守ったままのスマホを向けた。仰向けの体の先、投げだした私の両足のすぐそばにシショーが笑って立っていた。
「行けるかなと俺も思ったんだけど」
難しいね、とジンさんに言っているシショーの手が画面の中で大きくなった。スマホを差しだすと、笑い声が返ってきた。
「ちがうよ。起こしてあげようと思ったんだ」
シショーは私にスマホを持たせたまま、両方の手首を引いて私を起きあがらせる。
「ずいぶん無茶をしたね」
そう言ってまた笑う人を私は観察する。
赤い鼻が一緒になって楽しそうにぴこぴこと揺れている。あれだけの激しい動きをしてもしっかりとシショーにしがみついていたのだ。つけ鼻だけじゃない。シショーは私に向かって走りはじめたときとなに一つ様子が変わらなかった。じろじろと探してようやく額にわずかな汗が光るのを見つけたくらいだ。壁に指が届かなかったのだから怪我の一つもしていてもおかしくないのに、擦り傷一つない。残念そうな様子もない。本当に、この人はこの世のすべてから自由なのだ。
立たされた後も不格好なかかしよろしく立ちつくしていた私の背中の土ぼこりをはたいてくれながら、シショーは、だめだよと言った。
「無茶をしないのがパルクールのルールだからね」
私が聞きとれないでいることは容易に察知されたらしく、落ちついた声がもう一度ゆっくりとその語を繰りかえす。
パルクール。
「今、俺がやったようなやつ」
また風が吹いた。
それは春らしく強く、そして軽く、さらに自由だった。赤い小さな球が踊りまわって起こした風だ、と私は思う。なにものにもさえぎられずに、思うままに駆けぬけた人の生んだ風はただ楽しげにシショーの髪を揺らす。まだまだ遊ぼうと誘うように。あれが。
「パルクール」
「そう」
錆びた声は今度もちゃんとシショーに届いた。シショーはなんとか言葉として成立した頼りない音を届けついでに自分の髪にじゃれつく風がまるで見えているかのように優しく目を細めた。そしてそのままの目つきで私を見やると、ごく穏やかに、
「これからきみがやるやつだよ」
と、言った。
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