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第3章 「水曜日」
「瀬乃音さン」
トイレから席に戻ってきたとたんに意を決したように話しかけられ、私の気分は最低まで落ちた。
気分とともに床まで降下した視界で、声の主の上履きが私の机の脚に触れそうなほどの距離にあるのを見つける。数秒前には間違いなく自席にあったはずの、清潔感にあふれたそれがわずかに黄味を帯びた窓外からの光に薄く影を引いている。
やっとあと一コマまでしのいだというのに。
腹立たしい思いで妨害者の影をにらむ。
始業式の日の騒動からすでに二か月弱が経過している。いいかげん諦めてもいい頃合いだと思うのに、この男子は私とコミュニケーションをとるための努力をやめない。異常事態、と私は脳内で唱える。同じように保健室の満員御礼という異常事態も解消されていない。二つの異常事態へ対応するために私は授業以外の時間帯をほとんど女子トイレにこもっていた。
「あの、サ」
事態の元凶が深く呼吸をした。
「今日の放課後、ちょっとだけでいいから話せなイかな?」
思わず相手の顔を見上げる。相変わらず小さな顔には不釣合いに大きな眼鏡の奥、両の瞳が腐っていないことに愕然とする。なに一つを諦めていない目だ。
「話すことなんてない」
「そんナことないよ!」
勢いよく返された返事に面食らう。
今のは特に相手に聞かせようと思った声ではない。それが簡単に相手に通ってしまうことに二か月近くたっても慣れない。とは言え、うろたえているのは眼鏡男子の方も同じようで、あわてた様子で言葉を継ぐ。
「アッ。エエと。ゴめん、瀬乃音さンにはないかもしれないヨね。でも少ナくとも僕にハ話すことっていうカ、瀬乃音さんに聞キたいなぁってことがあっテ!」
あせっているのか、声がどんどんと裏がえっていくが、気にしている余裕などないとばかりに眼鏡男子は口を光速で回転させつづける。
言葉の機関銃を浴びているようで、私はうめく。
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