みっつ目のコメント

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みっつ目のコメント

 恥ずかしいことじゃない、胸をはろう――好きなひとからもらった、言葉。  先輩がやってくるのを、いまかいまかと緊張しながら待つ。当日に使うスライドはもう、画面に共有してある。 「あっ、先輩。こんばんは。夜遅くに練習に付き合っていただいて、ありがとうございます。えっと、スライドは見えてますか? こちらでタイマーをつけてあるので! それでは、はじめますね……ええと、原稿、原稿……そっ、それでは、わたしの発表をはじめさせていただきます。わたしの報告のタイトルは――」  ピコンと通知音。 〈笹山(ささやま)さん。ミュートになってますよ〉 「わわっ! ごめんなさい!」  わたしの(つたな)い発表を、先輩は優しく聞いてくれる。  先輩の顔の下に表示される「Noboru Kuwata」というローマ字。ビデオをオフにせずに、ふんふんと、首を縦にふったり、なにかメモを取ったりしてくれている。  決して、首をひねったりなんかしない。あくびもしない。  先輩は、わたしの味方だから。 「これで発表を終わります。ご静聴(せいちょう)ありがとうございました」  拍手をくれる。「お疲れ様」と言ってくれる。「前より良くなってるよ」と褒めてくれる。  好きで、好きで、好きで、しかたがない。先輩は、わたしの唯一の味方。 「ぼくからのコメントはみっつ。まず、4枚目のスライド」  スライドを(さかのぼ)り、4枚目のところをうつす。 「ここ。『para』のあとが空白になってるよ」 「あっ、ほんとだ」  一次史料として使っている議事録から引用した箇所(かしょ)。それが文書のどこのパラグラフなのかという情報が抜け落ちていた。 「気付きませんでした。何度も確認したはずなのに……」  なんでこんなに、ミスが多いのだろう。  はじめての研究発表会。緊張する。しくじってしまうのが怖い。  そんなことを何度も言っているうちに、練習に付き合ってくれると申し出てくれた、先輩。  自分の研究で忙しいのに、わたしのために時間を使ってくれている。しかも、こんな夜中に。 「細かいところになるけど、『構築された』という言い方をすると、――先生あたりから、突っ込まれそうかな。『作り上げられた』の方がいいかも。もちろん、笹山さんが決めることだけどね」  原稿の「構築された」の部分をボールペンで黒く、黒く、黒く塗りつぶす。  余白に「作り上げられた」と、丁寧に書く。 「あの、先輩にひとつ聞きたいことがあるんですが……」 「うん、ぼくに分かることなら」 「ええと、先行研究を紹介する部分なんですけど、そう……ここ。前の模擬練習で、英語の文献がないって言われて……」 「でも、この分野って……ぼくは詳しくないけど、必要な外国語文献ってあるの?」 「むしろ、研究が少ないくらいなんです」 「そうなんだ。だったら、そんな質問が飛んできたら、そういうふうに答えたらいいんじゃない?」  違うんだ、先輩。あの人たちは、英語が読めること、参考文献一覧に外国語文献があることに、価値みたいなものを抱いていて、バカにしてくるんだ。  でも、先輩は、わたしの気持ちを察してくれた。 「英語の文献が読めることがステータスだと思ってるひとって、ほんの少しくらい……いや、けっこういるんだよね。外国語の文献を引用する必要があるなら、読めた方がいいけど。でも、参考文献に並べて格好をつけるために、洋書を読むなんて、感心はできないな」  そう、そうなのだ。わたしは、そういう風に言ってほしいのだ。 「まあ、気にしなくていいよ。でも、気にしちゃう性格だもんね、笹山さんは。またなんか言われたら、ぼくに相談してくれていいよ。少なくとも、ぼくは、笹山さんの味方だから」  先輩、わたしのこと、ほんとうは好きなんじゃないの?――って思っちゃうほど、わたしのことを気にかけてくれる、寄り添ってくれる、優しくしてくれる。  原稿の余白に、好き、好き、好きって書いてしまう。ハートマークまでつけて。 「そして、最後にひとつ」  そうだ。コメントはみっつあるって言ってた。さえぎってしまって、ごめんなさい。嫌いにならないでね、先輩。 「ぼくの知ってる1年生のなかで、一番がんばってるなって思うのが、笹山さんだから。きっと、うまくいくよ」  画面に映っている自分の顔が、赤く染まっていくのがわかる。ビデオをオフにして、両手で顔をおさえた。 「おやすみ、笹山さん」  先輩が退出したあとも、わたしはルームを閉じられないでいた。  もう十時半だ。どうしよう。  わたしはまず、なにから始めればいいの?
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