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*  慧喬は後宮の朝議の行われる蘭華殿へと梁氏の後に従った。  会場へ着くと、王妃の到着を知らせる侍女の声が響いた。  それを合図に既に揃っていた側妃とその侍女たちが一斉に立って拱手する。側妃たちの美麗な簪が揺れて、りりんと鳴った。  梁氏がその中へと優雅に進む。慧喬もそれに続き、足を踏み入れた。  左前方にいるのは貴妃である宋綾朱。父親が三公の一人である司徒という名門中の名門の出だ。宗文、学英という二人の王子がいる。梁氏を含めて四人の中で後宮に最も長く席を置く。  その向かいにいるのは、賢妃の趙清夏。子翼という王子と伶遥という公主の母妃だ。父親は門下省長官、侍中の重責を担う。  そして賢妃の左隣が三人目の側妃である徳妃の呉鈴蓉だ。妃の中で最も若く、飛び抜けて美しい。徳妃には慧喬の一つ年下の王子、利孝がいる。徳妃の父親は左羽林軍の上将軍だ。  梁氏は緊張に満ちた空気の中、会場の首座に着くと一同を見回した。 「おはようございます。それでは本日の朝議を始めます」  その言葉で各々が顔を上げた。  風が撫でた細波のように、ざわりと室内の空気が揺れる。  貴妃は慧喬を見て整った細い眉を顰め、そのままの表情で梁氏へと冷ややかな目を向けた。  賢妃は驚いたように慧喬の顔を見ると、貴妃に視線を彷徨わせた後、梁氏へ視線を移した。  徳妃は慧喬にその美しい顔をはっきりとしかめた後、梁氏を問うように見た。 「本題に入る前に少しご報告のお時間をいただきますね」  梁氏が穏やかな声で言うと、それを合図に妃たちが腰を下ろし、視線は自然と梁氏の隣に立った慧喬に集まった。  慧喬は向けられてきた三人の側妃の目に順に視線を合わせた。 「長らく療養をしておりましたこちらの慧喬が、快癒いたしましたので本人からご挨拶させていただきます」  梁氏はそう言って促すように慧喬へと微笑んだ。  慧喬は側妃の三人と、その後ろに控えるそれぞれの侍女を改めて見回す。 「慧喬でございます。これまで療養をさせていただいておりました。皆様にはご心配をおかけいたしましたが、元の生活に戻ることになりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」  簡単に挨拶をして頭を下げる。 「皆様には色々とお心遣いいただき、すみませんでしたね」  梁氏がにこやかに言うと、一瞬の間が空いた後、賢妃がぱちぱちと手を叩いた。 「もう大丈夫なのですね? 良かったですわ。伶遥も喜びます」  慧喬と同じ年の伶遥とは親しくしており、よく一緒に茶を飲むなどしていた。それでも、伶遥にも慧喬が紫紅峰に行っていたことは伝えていない。  だから何度も富貴宮にも見舞いに来てくれたことを梁氏からは聞いていた。 「伶遥殿にはまた改めてご挨拶に伺います」  慧喬が賢妃に頭を下げると、そのすぐ前で貴妃が手にしていた扇を掌に、ぱし、と打ち付けた。  皆の視線が貴妃に移る。 「太子殿下の葬儀にも出られない程であったのに、随分と元気そうね」  にこりともせず貴妃が言う。  慧喬はその冷ややかな目をまっすぐに受けて答えた。 「はい。危うく命を落とすところでしたが、お陰様で」  貴妃の瞳から目を逸らさず、にこりと微笑む。  そして賢妃と徳妃へと視線を移して続ける。 「葬儀には出席できず申し訳ありませんでした。皆様には重ねてお詫び申し上げないといけないのですが、実は遠方にて療養をしておりました。急いで帰ってきたのですが、それ故、葬儀には間に合いませんでした」  富貴宮にいなかったのを公表することはあらかじめ梁氏とは打ち合わせ済みだ。王にもその旨は了解をとった。  慧喬は三人の側妃の反応を確認するように見る。 「何てことでしょう。私たちを欺いていたのですね」  貴妃が梁氏に非難がましい目を向けて、芝居じみた声をあげた。 「内密にしたことについてはお詫びいたします」  慧喬が頭を下げると、梁氏がそっと慧喬の背に手を置き、その続きを引き取った。 「ごめんなさい。あまり大袈裟にしたくなかったのです。静かに過ごさせるために、便宜上、こうせざるを得なかったことをご理解くださるかしら。陛下もご承知のことです」  後宮を離れた目的は静養のためではなかったが、穏やかに、できるだけ嘘ではない言い方を選ぶ。 「嫌だわ。王妃様はそれを知って私たちが何か大袈裟なことをすると思ったということですのね」 「そういう意味ではないのよ」  言葉尻を捕らえるような貴妃の言い方に梁氏が困り顔で応じる。 「そうですよ、綾朱様。そんなおっしゃり方をしなくても」  賢妃が取りなすように言うと、貴妃の非難がましい目が今度は賢妃へと向けられた。 「私はただ、後宮の秩序を監督すべき王妃が、こんなふうにこそこそと私たちを欺くのはどうなのかと言っているだけよ」 「欺くだなんて……。慧喬公主の身を案じてのことでしょうし……」 「貴女はいつもそうやって人の顔色を窺って、何でも曖昧のままにするの。こういうことははっきりさせるべきよ」  貴妃が苛々と賢妃の言葉を切って捨てた。  すると、それまで黙って見ていた徳妃が、ほほほ、と明らかに聞こえるように笑った。  咎めるような目で貴妃に睨まれた徳妃は、にっこりと艶やかな笑顔で挑発するように言った。 「貴妃様は大袈裟ですわねぇ」 「何処が大袈裟だと言うの?」 「だって、そのことで別に何か害を被ったわけではありませんわよね」 「騙していたのは事実でしょう。貴女は黙ってらっしゃい」  貴妃の剣のある声に、徳妃がわざとらしく扇で口元を隠して肩をすくめる。 「おお怖い」 「ふざけないで。いい加減になさい」  年長の貴妃の叱責にも徳妃は動じない。それどころか、にこりと微笑む。 「あら。貴妃様こそ」 「何よ」 「いくら次の太子に誰が指名されるのか不安だからって、王妃様に当たらなくても良いでしょう?」 「失礼なことを言わないでちょうだい。不安になどなっていないし、当たってもいないわ。私はただ王妃としての自覚を持って役割を果たしてほしいと言っているだけよ」 「まあね、貴妃様が王妃様に文句をおっしゃるのはいつものことですけど、それだけではないように見えますわ」 「どういう意味?」  貴妃が徳妃を睨むが、まるで気にしていないよう視線を合わせたまま言った。 「利孝だけじゃなくて、慧喬公主もお気に召さないようですわね。まさかまた王妃様のところから太子が出るとでも?」  徳妃の揶揄うような言い方に、貴妃の紅い唇が怒りで震える。  その顔に徳妃が目を細める。 「よろしいじゃないですか。何処で療養しようと、陛下がご承知のことであれば私たちがどうこう言うことはありませんもの。ご不満があるのならば陛下におっしゃったらいかが?」  徳妃が美しく唇の端を上げて首を傾げると、貴妃は徳妃を憎々しげに睨み、もういいわ、とそっぽを向いてぱたぱたと扇であおぎ始めた。貴妃からの反応がなくなると徳妃も微笑みを消し、つまらなそうにゆらゆらと扇であおぐ。  梁氏はそれを困ったように見ると、慧喬の背を、気にするな、というように撫でた。  恐らくこのような光景はいつものことなのだろう。梁氏に狼狽した様子はない。 「では、ご報告はこれまでにしますね」  梁氏がしれっとこの話を終わらせたので、慧喬は一礼して絡みつくような視線の中を退出した。  外へ出た慧喬は、今しがた後にした部屋を振り返った。  慧喬の殺害を指示したのは誰なのか。文則らに接触したのが後宮の宮女であることから、側妃が関係していることは確かだろう。  それに、三人の側妃の父親はいずれも要職を担っており、知ろうと思えば慧喬が後継に指名されることを事前に知ることができる立場にあると言える。  貴妃の父親は補佐として王に最も近い立場にある司徒だ。詔書の内容も当然知っているだろう。  賢妃の父親は、中書省の作成する詔勅の草稿を審議する部署である門下省の長官である。慧喬を後継とするとした詔書も目にした可能性はある。  徳妃の父親は左羽林軍大将軍を勤めており、王の護衛の侍従武官は左羽林軍所属だ。その護衛に命じておけば後継について探るのも可能ではあるだろう。  慧喬は先ほどの三人の側妃の様子を思い返してみた。  慧喬の復帰に最も反応をしたのは貴妃だ。  しかし、貴妃があからさまに梁氏に敵意を示すのは、今始まったことではない。  前王妃が亡くなった時、次に王妃の座に就くのは後宮に最も長く席を置く貴妃だと周りも思っていたし、本人もそのつもりだった。しかし、数年の空席の後、実際に王妃となったのは当時淑妃だった梁氏だ。  しかも、その後、梁氏が母代わりとして預かっていた孝俊が太子に指名されたのだ。  貴妃の息子の宗文は武術にはそれほど長けてはいないが、聡明な王子だ。王妃の座を逃した貴妃は、せめて宗文が太子に選ばれることを切に望んでいた。だから孝俊が指名された際は、落胆のあまり寝込んだほどだ。  孝俊が亡くなった今、宗文は賢妃の息子の子翼と並んで一番年長でもある。  もし慧喬が後継に選ばれたと知れば、大人しく受け入れる姿は想像できない。かと言って、先ほどの反応は、慧喬に刺客を差し向けたと確証を得るほどではない。  慧喬の復帰の報告を最も肯定的に受け入れたのは賢妃だった。娘の伶遥と仲が良い慧喬の快癒を喜んでいる意を表す形で。  賢妃は物静かな思慮深い女性で、面倒ごとの多い後宮にいても負の感情を表に出さない。息子の子翼や娘の伶遥も賢妃が声を荒げるのを見たことがないと言っていたのを聞くに、自制することが上手い人なのだろう。  子翼は武術に優れ、裏表のない人柄から人望も厚い。表立ってそうは言わないが、賢妃も母妃としては当然、後継にと希望を抱いたことはあるだろう。  自分の感情を制御することに長けているだけに、腹の中では何を考えているのかはわからない。  そして、貴妃と真っ向から対立した徳妃。気の強そうな見た目どおりの気性だ。  徳妃にも利孝という王子がいる。徳妃に似た美しい容姿を持つ活発で利発な利孝は、一番年若の王子であることもあって皆に可愛がられている。王は公平を是とするので利孝を偏って扱うことはしないが、好ましく思っていることは周知のことだ。  そのことを承知している徳妃は、当然利孝が太子に選ばれるものと確信していたらしい。  だから孝俊が太子に決まった時は、直接王に理由を聞きに行ったという。  徳妃の気性を考え合わせるに、孝俊の亡き後、慧喬が後継に選ばれたと知れば、何らかの行動を起こした可能性はある。それに貴妃に対して次の太子の件を持ち出して挑発したことも気にはなる。  三人にはそれぞれ慧喬を邪魔に思う理由があるものの、慧喬の無事な姿を見てはっきりとそれとわかる動揺を表した者はいなかった。  そのことについては残念ではあったが、姿を見せたことには意味がある。  無傷の慧喬を見た依頼者は、文則らが帰ってきていないので、暗殺が失敗したのか、それともそもそも実行に移すのをやめたのか判断できないはずだ。  暗殺のことを報告しない理由は、この状況を利用するためだ。  報告することによって公の調査が行われれば、首謀者はほとぼりが冷めるまではこれ以上の動きはしないだろう。  しかし、状況が把握できなければ、焦って何らかの行動を起こすことが期待できる。  それに。  孝俊の死は事故によるものとされている。  だが。もし。あれが故意に起こされたものならば、慧喬を狙った者がやったはずだ。  孝俊は紅国の王として、これから幾千幾万の民の利となる(まつりごと)を行うはずだったのだ。  その途を断った首謀者には、当然、報いを受けさせなくてはならない。  慧喬は大きく息を吐くと、まだ朝議の行われている部屋をじっと見つめた。
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