養花

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* 「殿下におかれましては、ご機嫌麗しく……」  東宮へ戻ると間もなくのことだった。来訪者が恭しく拱手をしながら口上を始めた。  慧喬が無表情にそれを遮る。 「挨拶はそのくらいでいい。用件を聞こう」  拱手していた人物が、恐れ入ります、と整った顔を上げた。 「呉奉御が私に何の用だ?」  訪ねて来たのは、尚乗局奉御の呉若思だ。  尚乗局は王族の馬や輿等を管理する部署——つまり赤流のいた厩の主管だ。奉御はその長官である。  そして呉若思は徳妃の弟だ。 「厩にいらっしゃったとお聞きしましたが、何か不備でもございましたでしょうか?」  慧喬が厩を訪れてあれこれ馬番に尋ねたことを聞いてやって来たのだろう。しかし、 「私が厩に行っては変か?」  慧喬は机に片肘をついてしれっと言った。 「いいえ。とんでもございません。ただ、慧喬様の御馬(みま)は厩にはおりませんのにいらしたとお聞きしまして、何かありましたかと……」 「馬が好きだからな」  慧喬があからさまに適当な理由を述べると、若思が困った顔で慧喬を見つめ、諦めたように口を開いた。 「何か、お気にかかることがおありなのでしょうか」  若思から向けられた探るような目を受け止めながら、慧喬は今度は両の肘をついて顔をその上に乗せた。しかし返事はしない。  言いたいことをはっきり言ったらどうだ、と視線を返す。  すると、若思が静かに息を吐いて言った。 「……赤流のことを色々とお尋ねになったと聞きました。……亡くなられた太子殿下の御事は、殿下におかれましてはご無念のことと心中お察し申し上げます。……しかし……何故、改めてお調べになられておられるのでしょうか」 「調べられて何か都合が悪いことでもあるのか」 「そういうわけではございません」  若思が顔をしかめる。 「厩から何かお持ち帰りになったそうですが」 「ああ」 「何をお持ち帰りになられたのでしょうか」 「大したものじゃない」  そう言うと慧喬は首を傾げた。 「私を取り調べにきたのか」 「滅相もございません」  顔を伏せた若思の眉間の溝を見ながら慧喬が言う。 「では、逆に聞きたいのだが」 「何でございましょうか」  緊張気味の顔が上がる。 「事故の前に赤流の馬房に近付いた不審な者がいなかったか、ということは確認したのだな」 「はい。もちろん確認済みです。御史台にも報告をしております」 「前日以前については?」 「……怪しい者についての報告は上がっておりませんでしたので、そのように……」  慧喬の顔色を窺いながら言うと更に続けた。 「狩りに同行しておりました呉将軍からも、赤流に変わったことがなかったか厳に調査するようにと指示を受けましたので、殊更細心の注意を払って確認いたしました」 「その結果が、異常なしということか」  慧喬の言い方に若思の顔が僅かに強張る。 「調査は公明正大にしております」 「もちろんだ」  無表情に見返す慧喬に、若思の声が僅かに高くなる。 「ご自身の御馬を見に来られても、あくまでご自身の御馬にしか接触はされておりません」  主語のない抗議するような台詞に慧喬の眉根が寄る。 「誰のことを言ってる?」  若思は窺うように慧喬を見ると、いえ、と口籠り、 「……御馬をお預かりいたしております方々のことです……」  とそそくさと帰って行った。 「呉奉御は何を牽制しにきたんだろうな」  椅子の背にもたれて慧喬が呟いた。  尚乗局の長官として、厩の管理にケチをつけるな、と抗議にやってきたのではなさそうだ。  呉奉御は徳妃の弟だ。わざわざ父親の呉将軍の名前まで出して、厳密に調査をしていることを主張した。徳妃が疑われていると思って探りに来たのか。  それにしては言い方が変だ。  ふと、先ほど見た若思の整ったしかめ面から、朝議での徳妃の怒り顔が思い出された。 「そう言えば、徳妃様が妙なことを言っていたな」  慧喬が腕を組んで呟く。  朝議の席で徳妃は貴妃にあからさまに喧嘩を売った。その時、「利孝だけじゃなくて、慧喬公主も気に入らないのか」と言っていた。  貴妃が徳妃の息子の利孝に何かしたのだろうか。 「貴妃様と徳妃様の間に何かあったのか」  朝議でのことを話して聞くと、行成が、なるほど、と合点がいったように何度も頷いた。 「孝俊様のご葬儀の時のことかと思われます。ちょっとした諍いがお二方の間にありました」  行成が溜息を挟んで続ける。 「利孝様は馬がとてもお好きなようで、ひと月ほど前に陛下が利孝様に馬をお与えになったんです。利孝様は非常にお喜びになって、日に何度も厩に馬を見に行かれていたそうです。それを聞き及んでいらした貴妃様が、利孝様が赤流に何かいたずらでもしたのではないかとおっしゃったのです」 「なるほど」 「そのことに徳妃様が酷くお怒りになりまして、それ以後顔を合わせると貴妃様のおっしゃることには全て徳妃様が反発される、ということをお聞きしました」  あの朝議での一幕はそう言った下地があったのか、と慧喬が納得する。  それで若思も、利孝が赤流に何かしたのではないか慧喬が探っていると思って否定しに来たのだろう。  慧喬は、ふむ、と頷くと組んでいた腕を解いて立ち上がった。  慧喬は再び王族の厩を訪ねた。  陽が傾きかけた中、厩では馬番たちが飼葉や水を運んだりと、(せわ)しなく働いていた。それを興味深く眺めていると、昨日話を聞いた馬番が慧喬に気付いてやってきた。 「殿下。どうされましたか」 「聞きたいことがあったんだが、忙しい時間帯に来てしまったようだな」 「いえ、大丈夫です。私でよろしければ、もう私の担当は終わりましたのでお話を伺いますが」 「すまないな。じゃあ、教えて欲しいんだが……昨日言っていた、赤流の水桶が壊れていたという日を特定できないか」  慧喬が言うと、馬番が首をひねって考え込んだ。しかし、あ、と顔を上げた。 「当番表を見ればわかります」 「当番表があるのか」 「はい。その時のものが残っているか探します。どうぞこちらへ」  そう言って詰所へと慧喬を促した。  しかし、慧喬は、いや、と首を振った。 「すまないが、もう少しここを見学したいから、ここで待たせてもらってもいいか」  慧喬が言うと、馬番は「わかりました。急いで探してきます」と詰所へと走っていった。  その背中を見送ると、慧喬は他の馬番達の動きを目で追った。  馬のいる馬房へと、飼葉の山から取り分けた桶、そして厩の外で汲んできた水の入った桶が運ばれ、馬柵棒(ませぼう)に次々と掛けられていく。赤流の水もそうやって用意されたのだろう。  どの段階で毒が盛られたのだろうか。この作業中ならば、水に仕込むことはたいして難しくはなさそうに見える。  そう考えながら馬番達の動きを観察をしていると、入口近くで作業をしていた者達が脇に避けて道を開けた。そこへ栗毛の馬が男に引かれてやってきた。  空の馬房に連れて行かれたその馬には見覚えがあった。  あれは外苑に行った時に子翼が乗っていた馬ではないか。  確認しようと一歩踏み出したところへ、馬番が走って戻ってきた。 「お待たせして申し訳ありませんでした。水桶が壊れていたのを見つけたのは八日の朝です」  振り向いた慧喬に、息を切らしながら馬番が言った。  孝俊の事件が起こった二日前だ。 「確かか」 「はい。朝一番で水を替えようとして気付きましたので、ということは早番の日です」  そう言って、手にしていた紙を慧喬に見せた。それには日付と名前が並ぶ表が書かれていた。早番と宿直の欄がある。  八日の早番の欄を指して「ここに私の名前が」と馬番が言う。 「すまないな。ありがとう」  表を確認して言うと、慧喬は餌を喰んでいる馬たちに視線を移して聞いた。 「水はいつもこの時間に替えるんだな」 「あ、はい。基本的には一日に三度なんですが、この時間が一日の最後の給餌の時間なので」 「では、壊れた水桶の水は七日のこの時間に変えたものになるのか」 「そうなるかと思いますが……」  壊れた水桶から毒が出たことは、仙舌草で試してみたあの場にいた者以外はまだ知らない。  馬番が水桶に拘る慧喬を不思議そうに見る。 「その時分に厩には誰がいたかわかるか」 「……私たちこの厩の担当と……多分、利孝様がいらっしゃったかと……」 「利孝殿はよく来るのか」 「はい。毎日いらっしゃっていました」 「今日はいないんだな」  慧喬が厩の中を眺めながら聞くと、馬番が困ったように俯いた。 「その……あの事故があってからは、以前ほどはいらっしゃらなくなりました。徳妃様に日に何度もここへおいでになるのを禁じられたとか……」 「貴妃様の言ったことのせいか」  ちらりと馬番を見て慧喬が聞く。  それには答え難いのか、馬番は気まずそうな顔で「よくは存じませんが……」と小さく言う。 「もしかして事故の直前にも来ていたのか」 「はい。……あ、でも、赤流には近付いていらっしゃいません。利孝様のご自身の御馬だけです」  先ほども同じようなことを聞いた。  若思が言っていたのはやはり、利孝のことなのだ。若思がわざわざ牽制しにきたのは、利孝の無実を主張したかったからだろう。  慧喬は得心すると、改めて当番表を指して言った。 「七日の宿直だった者にも話を聞きたいんだが、居るだろうか」  馬番は手にしていた当番表を見て確認すると言った。 「あ、はい。居ります。そこにいます」  そう言って若い男を連れてきた。 「何かご用でしたでしょうか」  連れられてきた男は戸惑いながら深々と頭を下げた。 「忙しいところをすまないな。七日の夜は其方が宿直だったな?」  慧喬が聞くと、男は顔を上げて当番表をちらりと見て自分の名前を確認し、はい、と頷いた。 「その夜、厩では何も異常なかったか」  その質問に、男は意図を問うように慧喬を見はしたが、はっきりと答えた。 「変わったことはありませんでした」 「何者かが厩に入ったようなことは」 「宿直の当番が厩の夜間の見回りをしますが、それ以外には誰も入っていません」 「間違いないか」 「鍵をかけておりますので」  慧喬は、そうか、と呟くと、今度は先ほど入ってきた栗毛の馬を指さして聞いた。 「あの栗毛は誰の馬だ」 「あれは、子翼様の天翔です」 「龍武軍の厩で世話をするわけではないのか」  子翼は龍武軍に所属している。  龍武軍には専用の厩があり、昨日慧喬たちが外苑に行く時に借りたのもその厩の馬だ。子翼も龍武軍の厩から馬を連れてきた。 「天翔は基本的にはこちらでお預かりしております」 「では、昼間は龍武軍の厩に連れていくということか」 「そうなります」  慧喬は天翔を見つめながら、そうか、と言うと、馬番に振り向いた。 「最後に教えてくれ。ここひと月くらいの間で、歩けなくなったり具合がおかしくなった馬はいなかったか」  二人の馬番は顔を見合わせ、どちらも心当たりはないと答えた。
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