萌芽

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 目の前で起こったことに文承は言葉をなくして立ち尽くしていたが、我に返ると心高を見た。 「心高っ!」  呼んだ声で振り向いた心高の顔がいつもと変わりないのを確認すると、文承は鬿雀に襲われていた三人に駆け寄った。 「大丈夫ですか……!?」  赤ん坊を抱き込んだままうずくまって震えている女性の肩からは血が流れていた。鬿雀に肩を掴まれたようだ。その女性を抱えるようにしていた男性——夫なのだろう——が文承の方を見た。男性も腕から血を流している。 「……は……は……い……」  男性がかろうじて返事をする。女性の方は声が出ないほどの恐怖が消えないようで、がくがくと震えたまま動かない。   「怪我を見せてもらっていいですか?」  心高に対するのとは別人のような柔らかい口調で話しかけると、文承は夫婦を連れて傷の手当てをするために木の根元へと移動した。  文承が籠を下ろして二人の手当てを始めたのを確認すると、心高は目の前に立つ若者をまじまじと見た。  若者は剣を鬿雀から引き抜くと、刃についた血を払って腰の鞘にゆっくりと仕舞った。 「君は大丈夫?」  視線に気付いて、今し方鬿雀を斬り捨てたとは思えない穏やかな声で聞いた。絶命した鬿雀の禍々しさとは真逆ののんびりとした空気が場を塗り替えていく。 「お陰で」  心高が答えると、それはよかった、と微笑んだ。  背の高い優しげな眼差しの男子だった。心高よりは年上だろうがまだ若い。  若者がちらりと心高の手にある短剣を見る。 「余計なことをしたかな」 「いや。正直言うとどうやって仕留めようかと困ってた」  短剣を元の場所に戻しながら心高が淡々とした声で言うと、若者が可笑しそうに下がり気味の目尻にくしゃっと皺を寄せて笑った。 「その割には随分と勇敢だったよね」  その笑顔につられて心高も、ふ、と笑うと、若者の横をすり抜けて切られた鬿雀の傍にしゃがんだ。 「しかし凄いな」  心高がまじまじとその切り口を見る。大きな鬿雀を一太刀で切り捨てる腕には目を見張るものがあった。  感心しながら鬿雀を覗き込む心高に若者が驚いた顔で聞いた。 「平気なの?」  心高が怪訝な顔で見上げる。 「何が?」 「いや、だって。気味が悪くはない?」 「もう襲ってこないだろう?」 「それはそうだけど」 「なら問題ない」  心高が再び鬿雀に目を戻す。 「鬿雀に会うとは思ってなかった……」  呟きに若者が再び驚いた顔をする。 「鬿雀なんて知ってるんだね」 「本で見た」  つまらないことを聞くなとでも言いたげな心高に、若者はそれ以上の感想を口にすることはしなかった。 「この山に(ねぐら)があるんだろうか……」  心高が片膝をついたまま、顔を上げて周りの木々を見て小さく呟く。 「こちらが見えてるようだったから、玄海から来たのではないだろうし……」  玄海には多種多様な怪物や魔物が棲む。当然鬿雀もいる。しかし、玄海に棲む生物が玄海から出てくることはほとんどない。出てきたとしても暗闇に暮らすそれらが明るい昼間のうちに自発的に姿を現すことはない。  腕を組んで心高を観察するように見守っていた若者がゆっくりと言った。 「こっちの方に飛んでいくところを見かけたから追って来たんだ」  心高は若者をちらりと見上げると、立ち上がった。 「……この鬿雀と同じものかどうかはわからないけど、この間も飛んでるのを見たってさっき会った猟師が言ってたよ」  立ち上がる心高を目で追いながら若者が続けると、心高が眉を顰めた。 「これはどの方向から飛んで来たって?」 「北の方からだったよ」 「北、って紫国の方ということか?」 「方向としてはそうだね」  心高が再び切れ長の目を伏せて沈思する。 「……まあ、紫国には魔物の湧き出る洞穴があったわけだし、ここは紫国にも近いしね」  若者が言うと、益々眉間の溝を深くして心高が地面に転がる鬿雀を見る。 「多いとは言っても、それは昔のことじゃないのか」 「まあ、そうなんだけど」  紫国とは正式名称を炬紫国(きょしこく)といい、許氏が治める国である。紅国とは北側の一部を接する国だ。  まだ紫国の建国前のことだが、怪物や魔物が湧いて出る洞穴が現れた。  特に、狙狐(そこ)という魔物は巧みに人間を誘い出しては喰らい、民たちを悩ませた。  しかし、それを邪鬼退散の神である鍾馗(しょうき)の加護を得た許氏が倒し、他の怪物たちも一掃して洞穴を封印した。そして炬紫国を興した。  以後、紫国に怪物や魔物が湧き出るような危険な場所は出ていないと聞いている。 「まさか、また怪物たちが湧き出したのか?」 「どうだろうね」  心高の咎めるような口調を気にすることもなく若者が肩をすくめた。  若者の飄々とした様子に眉を顰めたまま心高が聞いた。 「そう言えば貴方はどうして鬿雀なんか追いかけてきたんだ?」  若者は、んん? と(まじろ)ぐ。 「そりゃ、怪物が出たら追いかけるよ。……変かな?」  そう言って頭を掻く。 「心高」  そこへ文承がやってきた。  心高と若者が振り向くと、文承が若者に会釈をする。若者もぺこりと頭を下げる。 「あの人たちの怪我はどう?」  心高が聞く。 「掴まれた時に爪が食い込んだようだが、深くはなかった。手持ちの薬で手当てはできた」 「そうか。よかった」  軽く息を吐く心高に頷くと、文承は改めて若者に向き直って頭を下げた。 「ありがとう。お陰でこいつも命拾いしたみたいだ」 「何だ、文承殿。心配してくれたのか」  心高が無表情のまま茶化すと文承が舌打ちをして顔をしかめる。 「生意気なガキと言えど目の前で殺られたら寝覚めが悪い」 「酷い言い方だな」  心高が文句を言う。  若者がその二人を交互に見る。 「仲がいいんだね」 「どこが」  二人の声が揃う。  それに吹き出しながら若者が言った。 「でも本当のところ、間に合ってよかった。君が鬿雀をひきつけてくれたからあの夫婦は助かったとはいえ、あまり無茶をしないほうがいいと思うよ」 「だろ? もっと言ってやってくれ。しかもこのガキは本当に生意気なんだ」  文承が心高を横目で見る。 「今は私が生意気かどうかの話はしていないだろう」  心高が言うと、わざとらしくしかめ面を心高に向けて、文承は怪我をした夫婦の元へと戻った。  それを見ながら心高が言った。 「そろそろ出発しないと」  そして先ほど放り投げた自分の籠を拾う。その様子を目で追いながら若者が聞いた。 「何処かへ行くところだったの?」 「曲関県の北方の村へ薬を届けに行くんだ」  ふうん、と相槌を返すと、若者が言った。 「私も着いて行こうかな」  その申し出に心高が怪訝な顔をする。 「曲関県の村に用事があるのか」 「特に用事はないけど、曲関県って紫国との国境にあるだろう? そこを通って紫国に行こうかと思ってさ」 「紫国に行くのか」 「ああ。今決めた」  屈託なく笑う。 「……もし紫国で怪物が増えてるんだったら、腕試しの機会があるだろうし。怪物や魔物なら遠慮なく相手できるからね」 「何でそう腕試しをしたがるんだ」  心高が籠を背負いながら聞く。   「実は墨国に行くつもりなんだけど、その前に少しでも実戦を積んだ方がいいかと思って」 「実戦? 一体墨国に何をしに行くんだ?」 「軍の試験をね」 「軍なら紅国にもあるぞ。見た限りかなりの使い手だろう。即採用だろうに」  心高の言葉に若者が、ありがとう、と微笑む。 「ちょっと墨国でやらないといけないことがあるんだ」  そうなのか、と心高が不服そうに口を引き結ぶ。しかし、思い直したようにあっさりと言った。 「まあ好きなようにしたらいいんじゃないか」  心高の突き放す言い方に若者が笑う。しかし、若者がふいに笑いを収めて声を潜めた。 「……それはそうと、お節介かも知れないけど……」  僅かに心高の片眉が上がる。 「何?」 「君たち、つけられているみたいだけど大丈夫?」 「ああ」  途端に心高の顔が面白くなさそうになる。 「何だ。知ってたのか」 「まあ」 「大丈夫なの?」 「……あれは……問題ない」  文承を気にするように声を落として溜息混じりに言った心高をまじまじと見る。 「やっぱり着いていこうっと」  若者がにこりと笑った。 「……勝手にすればいい」  楽しそうにしている若者をチラリと見ると、心高は怪我をした夫婦と話をしている文承に声をかけた。 「文承殿、この人が着いて来たいと言うんだがいいだろうか」 「心高がいいなら別に構わない」  文承は孟起を改めてじいっと見ると、あっさりと答えた。 「じゃあ、名前くらい聞いておこうか」  心高が背の高い若者を仰ぎ見た。 「これは失礼。まだ名乗っていなかったね」  目尻に皺を寄せて若者がくしゃりと笑った。 「私は李孟起。南岐郷の者だ」 「草心高という。紫紅峰の泰慈先生のところで学ばせてもらっている。あちらは尹文承殿。私の兄弟子だ」  心高の淡々とした紹介に文承が孟起に片手を挙げる。孟起は、文承に会釈をすると言った。 「じゃあ、怪我をしたご夫婦を麓まで送ってから追いかけるよ」 「頼んでもいいのか?」  文承が驚いた顔をして立ち上がった。  一番近い里へ行くには来た道を戻ることになる。 「もちろんです。そちらは急ぐんじゃないですか? ご夫婦は責任を持って里まで送ります。鬿雀が出たことも里正(せきにんしゃ)に言っておきますね」  孟起が文承に言った。  そしてまだ動けないでいる女性を背負い、「じゃあまた後で」と赤ん坊を抱いた夫と共に、心高たちが来た道を戻っていった。
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