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そこから幾星霜、ちょうど海と陸の割合が正反対になった頃だった。気を失ったアオイの体がしまわれた、父がよく遊びに連れていった施設はすでに朽ち果てた。しかし、アオイの眠る装置だけが変わり果てた環境の中で、父の不滅の愛のように残った。
「どうかお願いします。もぐらレースまで全勝できるように頑張ります。こら、ダル邪魔だってば」
もぐらレース? ダル? レース? 何も見えない視界から聞こえてくる情報はちんぷんかんぷんだ。
「あふあふ、わふふ」
暗い視界に、ちかと光が差し込む。同時に、引っ掻く音がした。
「馬鹿、やめろよ。壊れちゃうだろ。やめなさいってば」
誰の声だろうと目を開ける。すると、暗い視界がひび割れ、視界が開けた。そこには一匹の巨大な犬と、作業服のような服を着込んだ灰色の髪の人がいた。人の額につけたゴーグルが、陽光の反射できらりと光る。
「ばふふ」
同じく灰色の毛の犬が大きな鼻先を近づけてくるので、驚いて身を引くがこの空間は狭い。奥に押しやられた。
「おったまげ。びっくらこいた」
「やだ、やめてよ」
アオイの声を聞いて、驚きの声を上げた人間は我に返る。外から犬を引っこ抜き、アオイに手を伸ばしてきた。
「つかまって。そこ狭いっしょ」
立ち上がって外に出る。自分よりも少し背が高いが、声からして歳は近い筈だとアオイは思った。
「あ、ありがとう」
しどろもどろになるアオイに、興味津々の視線を一匹と一人から向けられる。
「なんでこんな所にいたの」
「それは、父さんが」
言いかけ、息を飲む。
自分がいた所は父の研究所ではなかったからだ。そこは、空から燦々と日光が降る洞窟。床はタイルではなく砂地。
「父さんだって。そんな人いなかったよ」
「そ、そんな筈ない。ここはどこなの」
辺りを見回しても、研究所は跡形もなかった。洞窟の壁に埋まった装置、砂の地面、何処をどう見たって不自然極まりない。
「うーん。見てわかんないかな。地下洞窟。涼しいでしょ」
「そんなのどうでもいいよ」
狼狽してあたふたするアオイを、犬と人は顔を見合わせ思案顔だ。
「もしかして捨てられちゃったのかな」
「誰に」
「親に」
カッと頭に血が昇る。
「めったなこと言うな」
カラッとした言い分に余計に腹が立った。しかも、アオイが怒っても動じずに笑う。
「まあまあ。お腹減ってるの。だから怒りっぽいんだよ」
「もういい」
アオイは言い捨て、その場を後にして進んでいく。
「そっち危ないよ」
「あふふあおん」
後ろから聞こえる呼び止めにも耳を貸さなかった。
天高い洞窟からこぼれる砂と日光が足元に落ちる。静かな洞窟内で、アオイの心は穏やかではなかった。ここはどこだ? 父は、皆はどこにいるんだ。歩けば歩くほど答えは見つからず、焦りが胸を押しつぶす。
辿り着いたのは行き止まり、砂の壁だった。落胆の息が大きく肺から出る。その時乾燥した空気を吸い込んでしまい咳き込んだ。すると、見間違いだろうか。砂の壁がぎょろりとこちらを見たのだ。
「え、なに」
砂の壁に、丸い大きな瞳がひとつ。ずずと地響きが起き、その姿が露わになると尻もちをつく。それは、自身の百倍はあるだろう巨大な魚に見えた。
地響きに交じって、うるさいエンジン音が近づきバイクが現れる。アオイの足元に大きなタイヤが、砂を押し上げて止まる。
「そんなところにいたのか。危ないぞう」
先ほどの人間だ。サイドカーには犬がちょこんと座っている。両方ともこの巨大魚には目もくれず、悠長にアオイの顔を覗き込んでいた。
「な、なんだ、あれ」
指した指が震えるが、ライダーは呑気に頷くばかり。
「ありゃ砂カツオだよ。初めて見るのか、おっきいだろ」
砂カツオだって。聞いたことも見たこともない。そう言っている合間も巨大な魚の顔は近づいてくる。天井から砂が雨のように降ってきた。
「お、おっきいって、あれ、危険じゃないのか」
「はは。魚がヒト食べるわけないよ。犬もね。まあここにいたら潰されて死んじゃうけど」
ライダーは冗句でも言ったように笑った。しかし反対に、アオイの背に恐怖が走り、反対方向に向かって全速力で走りぬいた。その後を、バイクに乗ったヒトはなんなく並行してくる。
「はあ、っは」
「そういや名前聞いてなかったな。私はヤナギ。こっちはダル。よろしく」
「あおん」
背後を振り向けば巨大なカツオが近づいてくる。呑気に自己紹介をしたヤナギとダルは、生命の危機を全く感じてないようだった。
アオイは息も絶え絶えで正面を見据えると、そこは行き止まりだった。天井に穴が一つ、細い坂が天高く伸びているのみ。アオイだけで登り切れるわけがなかった。
絶望に足が止まるが、地響きは止まない。
「こんなのって」
振り返ると魚はもうそこまで来ている。ここで死んでしまうのか。訳も分からず、薄暗い砂の洞窟で。呆然と空を見上げるアオイに、クラッチの音が呼びかける。
「乗りな」
サイドカーに座れと首を傾け指示する。アオイはすがる思いでサイドカーに乗り込んだ。一方で、先客である犬のダルに不服そうに睨まれる。
「し、失礼します」
「ふん」
ダルはフンと鼻を鳴らした。そしてバイクは迂回し、巨大魚の方へと突進する。アオイはぎょっとして叫んだ。
「逆逆、逆だって。回れ右、右」
「右にハンドルきるの苦手なんだけど」
そういう事じゃない、と言いたくても恐怖で奥歯が震えて言葉にならない。
ヤナギはハンドルを握り締め巨大魚の寸前の所まで辿り着くと、砂を巻き上げて旋回した。そして天へと続く急な坂に突撃し、激しい揺れが胃を突き上げる。
「舌噛むなよ」
バイクのタイヤは坂を滑り、エンジンの力で無理矢理昇っていった。坂を登り切るとその先には何もない。スピードに乗ってバイクは宙を舞う。滞空時間は一秒ほどだが、浮遊感に息が止まった。ヤナギは楽しそうに叫び、ダルも風に舌をなびかせ愉快そうだ。
おえっ、とアオイは反射的に口から舌を出す。恐怖と空気圧で何も入っていない胃が悲鳴をあげていた。
バイクはドスンと着地し、勢いはそのまま赤い砂の大地を走り続ける。空は抜けるように青かった。地平線まで砂の大地にアオイは仰天した。
「最高だったろ」
ヤナギが笑いかける。目元はゴーグルで見えないが、アオイはきっと睨む。
「さいっていだよ。なんて無茶するんだよ」
サイドカーで共に座るダルは、アオイの大声に迷惑そうな顔をした。
「ダルが大きな声出さないで、だって」
無言でダルに見つめられ、アオイは口ごもる。ヤナギの勝手な解釈には見えなかった。
ため息をついて辺りを見回すが、洞窟を抜けてもここがどこかはわからない。だが、一面砂地には抜けるような青空が似合っている。
「なんなんだここは」
「マゼンタの町の近くだよ。名前は、きみ」
マゼンタなんて、聞いたことも無い町だ。仕方なく、アオイはエンジン音にかき消されない大声で答えようと口を開けた。
バイクは砂を巻き上げながら直進を続ける。砂カツオは遠くで立ち上り、すぐ背後でその巨体を空中に突き上げ、砂の大地にダイブした。巻き上がった砂にアオイとダルは頭を振って払う。
「げほ、ぺっ。口に入った。はあ、ア、アオイ」
「青か。いい名前だね。ヤナギなんて大昔の木の名前だよ」
柳はアオイでも知っている有名な植物だ。大昔からある、ごく普通の木だ。しかし、あたりを見回しても砂ばかりのこの大地では珍しいのだろうか。疑問は深くなる。
本当にここはどこなんだろう。夢でも見ているのかもしれない。寝て起きたら、いつものベッドで目が覚めて、父が朝食を用意してくれている筈だ。
「これは夢これは夢。寝ろ寝ろ」
目蓋を閉じるが、激しい揺れに眉間にしわが寄る。
「寝てる場合じゃないぞ。これからレースだ」
そういえば先ほどもそのような事を聞いた気がする。アオイは座る場所をずらし、体を起こした。
「俺興味ないよ。レースなんて。適当に降ろして」
言いかけて、遠くで再び巨大な砂カツオが立ち上る。待て。こんなところに降ろされたらたまったもんじゃない。
怯えるアオイにヤナギは嫌味のない笑顔を見せた。
「マゼンタに来たんならレースを観なきゃ。それからでも家族探しは遅くないでしょ。手伝ってあげるよ」
すっと出た助け舟に、思わず身構える。
「なんで」
「子供ひとりで放っておけないでしょ。なあダル」
ダルが元気よく吠える。
「どうも」
気のいい人物なのは分かったが、なぜか裏があるんじゃないかと勘ぐった自分が恥ずかしくなってつっけんどうな態度になる。それでも、ヤナギは嫌な顔一つしなかった。
「いいってことよ。その代わりちゃんと応援してくれよな」
「レースを観るんじゃないの」
素朴な疑問をぶつける。すると、ヤナギはにやりと笑い、親指を向けて笑った。
「私のレースなんだから」
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