この世界について

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この世界について

 一面の砂地にそこを泳ぐ巨大な魚、喋る二足歩行の動物に危険なレース。勝った時のヤナギの笑み。様々な場面が浮かんでくるが、どれを繋げても要領を得ない話になる。みんなはどこだ? 父は? 友人は? 他の人間はどこにいる。あの小さい子供は、結局どこに行ったんだろう。 まぶたを閉じて目覚めたらいつも通りの光景、そう思い描いているうちにアオイは寝こけてしまった。そして、目が覚めて起きたら部屋は真っ暗。窓には星空が映っていた。   「夢、じゃないよね」 部屋の外に出ると夜風が冷たい。赤茶ていた大地はいやに静かだった。歩き出すと、遠くで赤い炎が燃えているのに気づき近づく。 「ばおん」 ダルが突進してきたので腕で抱きとめる。焚き火の近くにはヤナギがいた。 「よく寝てたな。晩御飯まだだろ、ほら」 焚き火の真ん中でジャーを炊いている。鼻腔には微かに魚のいい匂いがした。 「モグラのおばあさんは」 「とっくにご飯食べて寝たよ。今から私のとっておき夜食タイム」 ヤナギの対面に座る。炎が星の輝きのように音を立てて弾ける。それは、アオイの不安な胸を強く叩く音だった。 暗い地上に二人と一匹。アオイは寝る前のあの平穏に、ふと戻りたくなった。 「あうん」 ダルが心配そうに顔を覗く。アオイの頬に一筋の涙が零れ、流星群のように止まらなくなっていった。 「朝の砂カツオを漁業の人が釣ったみたいで、分けて貰ったんだ。その人今日のレース見てたみたいで差し入れてくれたんだよ、ておい」 嗚咽を噛みしめ、涙を流すアオイにヤナギは仰天した。ヤナギは何も言わずお玉でジャーを突く。コツコツ、コツコツと、延々に。 「な、何も言わないの」 アオイはついに言ってしまったが、ヤナギは彼の涙を一向に気にしていなかった。 「あー。みみっちく泣いてんじゃないよ。しゃんとしろ。砂カツオが不味くなる」 アオイが思っている以上のきつい言葉に、つい涙が止まってしまう。 「そんな言い方ないだろ。なぐさめるぐらいしたっていいじゃん」 本音なんて言いたくなかった。ヤナギならスマートに慰めてくれそうだったのに、と本心がついもれてしまう。 「なあにがいいじゃんだ。子供みたいに」 なのにヤナギは砂カツオの煮込み具合に夢中になっている。 「まだ俺十歳だし」 ヤナギのジャーをかき混ぜていた手が止まる。 「嘘こけ。十ならもっと大人だよ。私はまだ二歳半だし」 今度はアオイが驚く番だった。二歳半なんて赤ちゃんと変わらない。しかし、よくよく聞いてみればこの世界の寿命は短く、アオイが生きていた一人百歳長生き時代とは訳が違った。 アオイの生活していた世界の常識は捨ててしまった方がいい。そして、アオイは涙を拭きながら尋ねる。 「俺の住んでいた場所じゃないみたいだ。ここは地球だよね」 「馬鹿にしてくれて。そうだよ。ここは大地の星地球だよ」 地球、と聞いて安心した。だがそう言うなら水の星じゃないのか、と言いかけたがこの世界はアオイの世界とはだいぶ違う。その事を頭に叩き込んでおかないと、とんでもないヘマをしそうな予感がした。 「ヒトは俺と、君と、赤いあの嫌味なレーサーと、日傘の女性だけしかいないの」 「見た目はヒトっぽいけどな、私もアガットもヒトじゃない。私は犬族、アガットはジャガー族。生粋のヒトはあのクラベット婦人だけ」 「え、そうなの」 遠くでハゲワシが鳴く。ヤナギは満天の星空を仰いだ。 「ああいう野生が元祖で、二足歩行が出来て言語を使えると社会の一員になれる。ヒトに近い見た目で生まれると、私やアガットみたいに差別されるぞ」 「どうして」 ヤナギの口から乾いた笑みがこぼれた。 「はは、異星人と喋ってるみたいだ。ヒトがこの地球の水を汚し、この星を腐らせた種族だからさ」 ダルが欠伸をする。アオイは耳を疑った。 「そんな馬鹿な」 驚くアオイに対して、ヤナギは淡白だった。この世界の砂地に心まで乾かされたように。 「事実だよ。だから私たち動物のご先祖さまが進化して、こうして暮らしている。ヒトはろくに働き口もない。特別な才能を持っていなければね」 ヤナギはマゼンタの街並みを臨んだ。頭一つ抜けたタワー、そこがクラベットの暮らしている家だ。 「ヒトは他にもいるの」 「ごみ溜めって言われてる下町にゴロゴロ。あまり関わるなよ。ケツの毛まで毟られる」 衝撃的な事実に思考が停止するが、ふと炎に照らされるバイクに目がいった。 「でも、ヤナギはレーサーとして生活してるんだろ、あっ」 言いかけて気づく。レース場でのあのブーイングはヘイトスピーチだったのだ。そして、ヤナギはバイク乗りとしての実力があるから生活出来ている。 まだ二歳半、姿はアオイよりも少し年上に見えるが、ヤナギは自分の力で稼いで生活しているのか。アオイが暮らしていた世界だったら、大問題になる。 アオイが何も言えずにいると、ヤナギはポツポツと話し始めた。 「私は砂場で生活する野生の母犬から生まれた。ヒトの姿で。だから群れから追い払われたけど、ダルだけは見捨てないでいてくれたんだよ。モグラ婆に拾われて、あとは超凄腕レーサーに転身さ。おい、ここは笑うところだぞ」 後半はわざとらしく、笑いを誘おうとした所が余計に寒々しく感じられた。茶化しても、厳しい現実の辛酸に吐き気がする。 「嫌にならないの」 ヤナギは小皿に砂カツオの切り身をよそい、アオイに渡す。 「レーサーが、かい」 「こんな世界が。悪い夢みたいだ」 ヤナギが自分の皿の砂カツオの身を解す。淡々と。 「現実だよ。どうしようも無い。生きるって簡単じゃないよ。な、行くところがなかったらモグラ婆のところで働けよ。私はあのモーテル出るから」 突然の告白にアオイは頭が真っ白になる。 「出るって、どこに」 「旅に」 「そんな急に」 アオイは言葉が続かない。そして、話しているとなかなか切り身に食いつけず、手に持った食器が宙ぶらりんのままだった。 「もぐらレースに優勝してたんまり懸賞金貰ったら、クラベットから土地の権利を買って婆ちゃん安心させるんだ。そしたら、旅に出る」 「出来なかったら」 後ろ向きな考えの自分が嫌になるが、聞かずにはいられなかった。 「そん時はまたマゼンタでレースに出るさ。あ、美味いこれ」 ヤナギのほころんだ顔につられ、アオイも切り身を口に含むとホロホロと頬が緩んだ。 それからは現実の話は無しにして、無心で魚を食べた。ダルも一緒になって魚を平らげる。アオイにとって、ダルはただの犬にしか見えない。ヤナギの兄弟と言われても納得できなかったが、そういうものだと理解するしかないのだろう。この世界のことも。 その夜は夢を見た。いつもの部屋で目覚め、起きたら父が料理を焦がしている。アオイはそんな父を手伝って朝の準備をするのだ。不器用だが優しい父の温和な顔が、キッと緊張で固まる。 「お前だけは守る。安心しなさい」  父の声が木霊する。  いつの間にか、アオイは深い眠りの中に誘われていった。  夢から醒めますようにと、もう考えることはなかった。
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