龍馬VS新選組~幕末史上最大のライバルとされる坂本龍馬と新選組。しかし、本当の戦いは、龍馬の死後、新選組犯人説を通じて、その仇を追う土佐藩の谷干城らによって、戊辰の戦場を舞台に行われていく。

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式場又二郎といえば存命していれば衆議院議員くらいにはなれたであろう、といわれた人物であるが、彼がその若き日、新選組の近藤勇らと親交があったことを知る人は少ない。 又二郎は八王子宿郊外の本百姓で、慶応三年(1867)のこの年まで世情の風雲とは無縁に生きていたが、10月に入って、旧知の土方歳三が日野に戻ってきたと聞いて会いに行ったことから、維新の動乱に巻き込まれることになった。 このとき、土方は自らが副長を務める新選組の新規隊員を連れ帰る役目を帰郷しており、ふらっと来訪してきた旧知の「又さん」に、 「京都を見物してはどうか」 と誘った。 見物、というが、その実、新選組の「御用」とやらを勤めるのが目に見えていたが、又二郎は、京都に吹き荒れる風雲というものがどういうものか見たいと思い、齢25という若さも手伝ってか、慶応元年8月に生まれたばかりの娘を置いて、勇躍、京の都へ旅立った。 洛中に入ったのが11月4日。 この時点で、すでに大政奉還がなされているが、土方などは、 「何、あれは形だけよ」 と笑っていた。 薩長が倒幕、倒幕、とうるさいので、ここでいったん店をたたんでみせて、その後、どのように連中がやるのか見てやろうというのが、将軍慶喜の真意だった。 慶喜の目論見どおり、薩長もそうだが、それまで勤皇、勤皇で祭りあげられてきた公卿はあわてふためいた。 この時期の京には政治をつかさどれるような覇気あふれる人材はいない。 後に太政大臣として明治政府の名目上の首班となる三条実美は未だ長州にいるのである。 次の国政の主宰者が誰になるのか、京都では沈黙と緊張の日々が続いていた。 それを打ち破る事件が起きた。 この時期の「戦争と平和」あるいは幕末から維新への急旋回につながったこその事件は11月15日の午後7時ごろに起きた。 その日、又二郎は不動村の屯所で会津藩士山本覚馬と永岡権之助・清治父子に、近藤勇とともに会い、彼らが手入れして持参してきた近藤の刀を見ながら歓談した。 その後、彼らを門前まで送り、次に予定されていた醒ヶ井の近藤の妾宅へ行く途中、一人の会津藩士と出くわした。 この会津藩士は、山本と永岡父子に、 「今聞いてきたのだが、四条河原町で坂本龍馬と石川清之助という者が殺された」 やったのは見廻組か新選組らしい、と息せききっていった。 山本は他人事のように、 「新選組の諸君ではないよ。先ほどまで私たちと用談していたからね」 と軽くいい、そのまま歩き去っていった。 又二郎は、路上で立ち聞きしたそれを醒ヶ井の妾宅に集まっていた近藤、土方、島田魁らに告げた。
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