名花劇場

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名花劇場

 母が亡くなったのは、娘の六歳の誕生日だった。  母屋から見える大きな一本松のその向こう。唯一の使用人である母と娘は、小さな離れにひっそりと暮らしていた。  母親の方は随分と若く、掃除洗濯、料理に裁縫、庭の剪定から屋根の修理も一人でこなした。元々口数の少ない母親だ。彼女が病魔に蝕まれていると周りが分かったのは、あまりにも遅かった。娘の誕生日を超えるか否か。  最期の時は、娘一人がその傍らに座って母親を何も言わずに見ていた。今日は娘の誕生日。まだ幼い彼女は、少なからず希望を見出してしまった。プレゼントという名の母の延命、そして、母からの祝いの言葉を。  娘に伸びた腕は青白く皮と骨しかない。恐る恐る手を取った娘は、パクパクとさせる口元に耳を寄せる。あぁ、これで本当に最期かもしれない。娘は母親の最期の言葉に耳を傾けた。 「私は罪を犯した。あなたは私の罪の子。幸せになんてなれない」  もうこの世にいない母の腕は、鈍い音を立てて床に落ちる。 ―――たった六歳。されど六歳。言葉の意味は十分に理解できた。 ◇◇◇  母親の十回目の命日。そして、娘の十六歳の誕生日。  季節は春。とはいえ四月の朝はまだ寒い。  母屋と離れの丁度間にある母親の墓前。老夫婦と娘は線香をあげてから両手を静かに合わせた。線香の煙が乾いた風に乗り、薄らいで消えてゆく。  少しの間、彼女は自分の荷を両手に納めると、老夫婦に身体を向けて深く頭を下げた。 「菖蒲さん…」  菖蒲(あやめ)、と呼ばれた彼女は、姿勢をそのままに「今まで本当にお世話になりました」とお礼の言葉を口にする。  主人は「頭をあげてくれ」と彼女を促し、横にいる妻の背を優しく撫でた。 「私、菖蒲さんっ…」  ゆっくりと頭を上げた菖蒲の視界には、目元に薄紫色のハンカチーフを添えて涙をこらえている夫人が映る。妻を宥めている主人も何処か寂しげで、ただの一言も言わず寄り添っている。  菖蒲はその光景を、あたかも人事のように冷ややかな瞳で見つめた。  老夫婦への多大なる恩義は身に余る想いだ。母親を病気で亡くしてからというもの、二人は菖蒲にできる限りの教養と経験を与えてくれた。十を過ぎた頃には、生前の母親と同じことが一通りできるようになった。慎ましくもありふれた一日一日がとても愛おしいとさえ感じた。   しかし、母親の言う「不義の子」が、そう易々と受けて良いものではないと承知している。呪いの言葉は、身体と心をむしばむ。それはもう正気でいられないぐらいには。涙はとうの昔に乾ききってしまった。人付き合いはほどほどに、自然な笑顔の作り方には自負している。  婚約者の存在を明かされた時、普通の、自分と同じ年頃の娘はどのような反応をするのかと想像してみた。世間体でいえば華々しい出来事かも知れないし、他に気になっている男子がいれば受け入れがたい現実なのかもしれない。  菖蒲は自分のおかれた現実に妙な冷静さを以て考えていた。幾度も悪夢に出て来た母の最期の言葉。もしかしたら自分は、それ相応の立場がある人物の不義の子ではないか。でなければ、こんな素性も分からない娘を嫁に欲しいものなのだろうか。否、余り物の嫁ならすぐに納得できたのかもしれない。  老夫婦との別れを惜しむ寂しさもひとしお。菖蒲は婚約者が用意した運転手付きの車に乗り込んだ。大きなエンジン音が聞こえるや否や車は勢いよく走り出す。菖蒲はふと、車の後ろ側のガラスから外の景色を覗いた。その先には、穏やかで優しい老夫婦が連れ立って車を見送っている。琴瑟相和(きんしつそうわ)すとは、きっと彼らみたいなことを言うのだろう。菖蒲はその姿が見えなくなるまで見つめ続けた。  しばしの間、白髪交じりの運転手は高揚した様子でルームミラー越しに菖蒲を見つめた。 「今日はめでたい日ですね。こんな大役をいただけて私も職業冥利につくといいますか。本当におめでとうございます」 「ありがとうございます」  菖蒲は得意の自然な笑顔を向けた。この縁談話が喜ばしいものなのか、正直彼女には分からない。少し大袈裟な祝福の祝いの言葉に戸惑いながらも彼女は受け入れる。 「それにしても、お相手が名花劇場の役者さんだなんて。…もしかして、最近人気に拍車のかかっている白爪(しらつめ)君?それとも女形の百瀬(ももせ)君かな?ちなみに私の娘は、熱烈な尊氏一葉(たかうじいちよう)のファンでしてね。私も一度付き合わされたことがあったのですが、彼を初めて見た時は驚きましたよ。こんなおじさんでも彼の美しさに見惚れたものです」  運転手は、あはは、と照れくさそうに笑いながら、クラッチを軽快に動かし坂道を風のように一気に駆けのぼる。  視界が開け海が見えると、風の音が変わった。 「調子に乗ってしまいました。今日の海はまるで、あなたの幸福を祈るようにキラキラと輝いていますよ」  車の窓を開けると、心地の良い風が肌を撫で、波の遠音が響いてくる。初めて見る海では無いが、心の底から湧き出てくるこの感情は何か。おしゃべりな運転手のサプライズに胸がいっぱいになる。ふと、菖蒲の髪が潮風に靡いた。       その後、相変わらず陽気に声を掛けてくる運転手を遮るようにして菖蒲は静かに口を開いた。 「尊氏一葉様です」 「え?」  初めて彼女の方から話題を提供してきたと思えば、その名は帝都だけに留まることを知らない大物だった。 「私の、婚約者の方は、名花劇場の役者さんで尊氏一葉様と言います」 「…存じ上げていますよ」  驚きを含む声は、存外落ち着きを払っていた。  間もなく帝都。目的地の名花劇場がある、花の都。 「後でサインをくださいよ」と運転手が呑気に笑ったのは、菖蒲が緊張した面持ちで車から身を乗り出した時だ。  次いで「こんなおじさんでも玉砕する日が来るとわな~」と呟くものだから、菖蒲はクスっと笑ってしまった。 ◇◇◇ 菖蒲は一人、目の前に立ちはだかる豪荘な劇場を見上げた。モノクロのシックなデザインの中に伝統美を感じる重厚な装飾品。老舗の貫禄がひしひしと伝わる。入念に磨かれた四角いガラスドアの前には「満員御礼」の札が堂々とかけられており、札を見つめる彼女の後ろの方からは「今日も満員ですって」と話し声が聞こえた。  それから彼女は、モノクロの壁面向かって右側のガラスケースに目を向けた。光に照らされたポスターには扮装した役者たちが華々しく描かれている。ポスター中央、主役であり座長を務める彼は、圧倒的な存在感を惜しみなく醸し出してる。 「尊氏、一葉……」  役名のすぐ隣。演じている役者の名前が記されている。菖蒲の細い指先が硬化ガラスに触れた。向こう側とこちら側はとても近くに見えてはるか遠くに感じる。目に見えて分かる住む世界の違いと目には見えない心の在りかの場所。  考えれば考えるほど今回の縁談が決まったのか到底理解に及ばない。運転手の言っていた「喜ばしい結婚」とはなんだろう。菖蒲が考えにふけていると、上等な燕尾服を来た男性が目の前に現れた。尊氏一葉では、ない。が、男性の容姿は端麗でポスターに連ねている役者の一人にも思えた。目を引く銀髪は自前のものか。青みがかった瞳に飲み込まれそうになる。  刹那、彼はニコッと口角を上げると菖蒲に深々と頭を下げた。 「名花劇場の総支配人兼尊氏一葉の付き人をしております。齋藤隼人です。」 「は、はい……。あ、あの」 「菖蒲さんですね。私のことは隼人とお呼びください。一葉並びに劇場の関係者はそう呼びますので」  隼人は丁寧ながらも適切にことの内容を話した。彼が長身ということもあり、菖蒲は目を伏せがちにも頭を上げて話を静かに聞く。 「よろしくお願いいたします。…隼人さん」  男の人を名前で呼ぶことなど滅多になかった菖蒲はそれだけで苦労を感じた。それを知ってか知らずか「うちは基本、名前で呼ぶことが多いんです」と笑う隼人に、菖蒲は内心大きなため息をついたのだった。  隼人に案内されるがまま菖蒲は静寂に包まれたロビー内に足を踏み入れた。今はちょうど二幕目が始まったばかりだそうで、当たりには数人のスタッフがちらほらいる。菖蒲はそっと頭を下げつつも、何振り構わず前を進む隼人にいそいそとついて行く。  少しの間、事務的な白地の壁が続く長い廊下を抜けると、応接間と書かれた部屋に通された。隼人は「お茶を持ってきますから、その子長椅子に腰掛けて、少々お待ちください」とだけ残すとすぐに姿を消した。  ドアを横目に、ガチャンと閉まったことを確認した彼女は、棚の上に一列で並んだ写真立てを覗いた。そのどれもが舞台上での集合写真らしく、着物やドレス、中には甲冑の扮装姿もある。どんな物語なのだろう、と胸を踊らせたのもつかの間。トントン、と鈍い音が聞こえた。菖蒲はすぐに長椅子へと腰を落とすと「はい」とだけ声を掛ける。あまりにも早い彼の戻りに心臓の鼓動が早まり、瞳が必然的に伏せられた。刹那、菖蒲の赤みがかった瞳が大きく開く。隼人の革靴では無い。西洋式のロングブーツである。そこから上にたどればポスターや写真越しに何度か目にした彼だった。金髪のカツラは後頭部の高い位置で括られており中性的な雰囲気を醸し出している。彼は長い前髪を払うと菖蒲の方にゆっくりと顔を近づけた。 「あなたが菖蒲さん?」  灰色を帯びた綺麗な瞳が菖蒲を捉える。隼人よりも少し高めの透き通った声は、目の前にいる彼女だけに向けられている。 「一葉様?!」  刹那、声を上げたのは菖蒲ではない。深い皺を眉に寄せた隼人が驚きと怒りを交えた声でその名を呼んだ。お洒落なティーポットとティーカップの乗ったトレイを両手で持つ彼は、今しがたお茶の用意を済ませてここへ戻ってきたようだ。菖蒲はだんまりを決め、二人のやり取りをそっと見守った。 「隼人か。自己紹介をしようと思ったのに…」 「何をっ!まだ一幕の途中でしょう?」 「次の場面まで二十三分もある」  チッと鳴らしたのは隼人の方だった。昨日まで長らく使用人だった菖蒲は肝を冷やした。いくら名花劇場の総支配人兼付き人にしろ、主に対する態度にしてはいささか反骨的ではないか。乱闘にでもなりやしないかと内心焦る彼女を横目に一葉は隼人の方に向き直ると、いきなり大きな声で笑った。 「そうだな。ここは一時退室としよう。ではまた、菖蒲さん」  菖蒲が急いで頭を下げた頃には一葉の姿は無い。残った隼人は分かりやすいほどにため息をつくと、そのまま淡々とした態度でお茶を菖蒲の前へと差し出した。 「申し訳ございません。一葉は、たまにおかしい行動を起こすので」 「い、いえ…」  正直な話、菖蒲が驚いたのは一葉よりも隼人の言動である。しかし、彼が動揺をそれっきり見せることはない。彼は菖蒲の目の前の椅子に腰かけると穏やかな表情で静かに話す。 「一葉は幼い頃にお母様を亡くしました。父親はおりますが、私は元々お母様の付き人でしたので親同然に育てたという自負があります」  なるほど。どんなに成功例に見える人間でもその後ろ側にある「事情」が華々しいとは限らない。否、一見華やかに見える人ほどそういったものなのかもしれない、と菖蒲は思った。それに、見目麗しく天下の名花劇場の看板役者である彼が得体の知れない自分と縁談を組まれてしまった。それが何より腑に落ちる話だった。  一人納得する彼女をじっと見つめた隼人は、何を思ったのか突然席を立った。急いで見上げる菖蒲にそっと笑みを落とした彼は「そろそろ一幕の終焉です。一葉も張り切っているでしょうから参りましょう」と優しく手を取った。  菖蒲は緊張していた。尊氏一葉は勿論のこと、演劇というものに触れたことが無い彼女は浮き足立っていた。観客席とはまた別の個室に通された菖蒲は、透明なガラス越しにステージを見渡す。豪華絢爛な舞台セットとドレスやカツラなどの扮装姿。オーケストラピットから響き渡る音楽はとても贅沢で、まるで、こちら側とそちら側は全くの異次元で夢現にも思えた。一幕の終盤、尊氏一葉扮する西洋の軍人が本妻と焦がれる女性との間に挟まれ、葛藤するシーン。その様子と聞こえてくる台詞からは、本当に涙を流しているようだ。狂いの無いバイオリンのユニゾンは、いつしか重厚な和音を奏でる。それに合わせるようにして今度は尊氏一葉が歌い出した。涙声で弱々しく始まったそれは、いつしか力強く愛を歌っている。アンサンブルも相まって一幕の最後に相応しい盛り上がりを見せる。刹那、歌と音、光が消えると割れんばかりの拍手が鳴り響いた。 「素敵でした...」  場内が明るくなると共に休憩のアナウンスが流れた。 「どうですか?うちのカンパニーと尊氏一葉は」 「素晴らしいです」  圧倒されっぱなしの菖蒲は目を輝かせながら言った。初めての舞台。初めての生オケ。初めてのミュージカル。初めて触れる胸のときめきは彼女の心を奪う。満更でもない様な隼人は「そうでしょう」と頬を緩ませた。  二幕は、怒涛の展開だった。本妻の謎の死、愛する人の豹変、すべての責任を抱え込む主人公。歌にダンスに本格的な演技。菖蒲は、その世界に侵食するが如くのめり込んだ。一葉がずば抜けて目立っている訳では無い。全てがそこに集結していると彼女は思った。  カーテンコールはとても盛大で、祭りのような賑わいだった。これは後で隼人から聞いた話だが、菖蒲の観た回は「千秋楽」だったそうだ。つまりは、舞台そのものの楽日。最後の日である。千秋楽に多くの人が訪れる理由は、舞台の終わりを見届けると共に、主役の「舞台挨拶」を待ち望んでのことだ。舞台に並んだ役者達の一歩手前。尊氏一葉は、深々と頭を下げてから話し始めた。 「この度は、ご観劇いただきまして誠にありがとうございます。役者並びに多くの関係者の皆様、そして何よりご来場いただきました皆様に深く感謝いたします」  流暢に話す彼に観客達からの拍手が送られる。その後、示し合わせたように拍手がなり止むと尊氏一葉は、挨拶を続けた。 「私一個人のことで恐縮ですが...」  刹那、ガタンという物音に菖蒲は隼人の方に振り返った。しかし、目の前には、あいも変わらず姿勢を正した隼人がいるだけだ。不思議に思った彼女が再びステージに視線を戻そうとしたその瞬間。不意に「では、こちらから出ましょう」と腕を掴まれた菖蒲は、強制的に場内から連れ出されてしまった。明るいロビーに目を細めると同時に舞台の方からどよめき立つ声が聞こえてきた。分厚い防音扉が二枚。それでも漏れてくる音は、どこか奇声じみている。すると、今度はチッと自分のすぐ傍から聞こえた。二階ロビーには、菖蒲と隼人しかいないので、舌打ちをした犯人は明確だ。一体、あの中で何があったのだろう。なんだか聞いてはいけない気がして、そのまま隼人に促されるまま劇場をあとにした。  同時間。若い女性の観客が目立つ中、尊氏一葉は爽やかな笑顔でマイクに声を通した。 「私個人のことで恐縮ですが。この度、婚約したことをご報告させていただきます。これからも引き続き名花劇場をよろしくお願いいたします」  共演者は一斉に尊氏一葉の方を驚きを隠さずに見る。観客席側からは、泣きじゃくる声や奇声が大いに発せられた。カオス、とはきっとこのようなことを言う。    垂れ幕は勢いよく降ろされ、まるで何も無かったかのように、終演のアナウンスが流れた。 ◇◇◇ 劇場から菖蒲は隼人によって連れ出された。菖蒲の手を取り、早足で歩く彼は、ぶつぶつを何かを言っている。それが穏やかでは無いことは、彼の狂気じみた雰囲気から読み取れる。菖蒲は、黙ったまま、足を急がせた。  隼人の運転する車に揺られて数分。名花劇場のある賑やかな大通りから一変、木々が青々と生い茂り、自然豊かな風景へと移り変わる。どこか懐かしさを感じるのは、菖蒲の生まれ育った故郷に似ているからだろう。隼人の雰囲気も大分和らぎ「そろそろ着きますよ」と掛けてきた声は、随分と柔らかさを含んでいる。それからまもなく、古さを纏った立派な門前で車が減速すると、そのまま中へと入っていく。そこにあったのは、下宿所のような横に長い、二階建の建物だった。玄関口には、大きな柊の板に達筆な字で『 風月館(ふうげつかん)』と記されている。  建物に目を奪われていた菖蒲を隼人が呼ぶ。足早に玄関へと入った先には着物姿の女性がニッコリと菖蒲の方を見つめていた。栗色の綺麗な髪は後ろでまとめられ清楚感が感じられる。髪と同じ色の瞳は長いまつげが麗しい。風貌からして菖蒲よりも十は歳上だろうか。それでも彼女は若々しく見えた。 「菖蒲さん、紹介します。私の妻の有紀乃です」 「初めまして。斎藤隼人の妻、有紀乃でございます。名花劇場では、衣装部門の部長を努めさせていただいております」  菖蒲は完璧な夫婦だと思った。名花劇場の役者ともとれる風貌を持ち、夫は支配人で、妻は衣装部門の部長ときた。菖蒲は急いで頭を下げると、そのまま定型的な挨拶を交わした。 「私は一度名花劇場に戻ります。今日はお疲れでしょうから有紀乃の手料理を思う存分楽しんでゆっくりお休み下さい。それでは失礼します。有紀乃、あとは頼みますよ」 「えぇ。隼人さんもお気をつけて」  妻思いのところも良い。そして、夫を優しい声で見送る有紀乃のことがとても素敵だと思った。 「さて、ではまずお茶にしましょう。菖蒲さんの為においしいと噂の茶葉を取り寄せたんです」 「あ、ありがとうございます」  有紀乃の笑顔は陽だまりのように暖かい。柔らかな春のそよ風がどこからか吹いてくる。建物自体は古く見えたがとても清潔で掃除が行き届いているのが分った。一見、下宿所のように見えた建物の一階は全て隼人と有紀乃の住居になっているようだった。キッチンを通ってリビングに通された菖蒲は、西洋式調の可愛らしいインテリアに胸躍らせていた。しばしの間、いい香りとともに有紀乃がティーカップを二つ、そして美味しそうなクッキーを運んできた。 「お疲れでしょう?名花劇場には行ってこられたのですか?」 「はい。隼人さんが案内をして下さって、一葉様も出番のない時でしょうか...。扮装した姿で挨拶に来てくださいました」  菖蒲が緊張気味に、けれど一生懸命話す姿に有紀乃はふふふ、と零した。 「隼人さん、怒っていたでしょう。一葉様も世間では大層な名誉をいただいているけれど、まだまだ子どもなの」  そう言う有紀乃の表情は母親が愛する子どもを語る優しさに溢れている。菖蒲はそれを羨望似た眼差しで見つめる。 「そうそう。うちの子達と本気で喧嘩なんてするのよ」 「お子様がいらっしゃるのですか」 「えぇ。今年9歳で双子の男の子なんです。名花劇場の舞台も時々子役で出演させていただいているの。でも今は、住み込み修行に行っているからここにはいないの」  菖蒲はしばしの間放心状態に陥る。二人の子供達は、どれほど見目麗しいのか。しかも、双子揃って子役、住み込みで修行とは。自分よりも遥かに大人の階段を登っているように思えた。 「是非、お会いしてみたいです...!」 「ふふふ、二ヶ月後に巡業で帝都に寄るそうですよ。二人も早く菖蒲さんにお会いしたいと申していました」  菖蒲の頬が桃色に赤らむ。二人の双子に会いたい。それは、菖蒲が十数年ぶりに感じた期待と好奇心の表れだった。  その後、有紀乃からいろいろな話をして名花劇場のことを聞いた。風月館の二階は、四部屋あり、そのうちの三部屋に役者が住んでいること。尊氏一葉の住居は、ここからほど近い場所にあること。しかし、使用人はおらず、隼人と有紀乃の住む風月館に居座ることが多いこと。二人の双子は息子だそうで、片方は女形を目指していること。…尊氏一葉が菖蒲に早く会いたがっていたことを、有紀乃は嬉しそうに話した。気づけば、太陽はその影を落とし、夕暮れ時となっていた。  有紀乃は、見た目以上におしゃべり好きで、それでいて面倒見がいい。 「明日、尊氏家の主屋に行きましょう」だから、ゆっくり温まって、と付け加えた彼女は、バスタブいっぱいのお湯とふわふわの寝床を菖蒲に与えた。  極楽殿とは、このような場所なのかもしれない。菖蒲は今ある暖かさに身を任せて深い眠りについた。 ◇◇◇  菖蒲は、早々に深い眠りへと誘われた。  夜のしじまの中で、満月が宝石のようにキラキラと輝いている。有紀乃はそれを、窓の内から静かに眺めていた。 ―――静かだ。とても静かな夜。あれから、夕飯の片付けやら風呂の掃除を終えた彼女は、風月館に住む寮生達の帰りを一人静かに待っていた。少しだけ開けた窓からは、柔らかな風が流れてくる。春とはいえ、夜が深まれば風も冷たく感じる。それでも有紀乃は、窓をしめることはせず、耳を外に傾けていた。 時刻は、随分と前に日付を超えている。千秋楽の日は、必ずしも寮生たちが早く帰って来る訳ではない。夫に関しては、千秋楽問わず劇場に泊まり込む日もある。しかし、それにしても遅すぎる。有紀乃は、数日後から始まる稽古の台本を、優に一冊読み終えてしまった。もしも、それに理由があるとすれば「今日」ということだ。つまり「菖蒲が来た日」であり、一葉が「婚約を発表した日」なのである。  有紀乃は、遠くから聞こえる微かな物音に、うつらうつらと伏せられていた瞳をパッと開いた。足音を殺して歩くのは、一人や二人ではない。風月館の寮生達だ。有紀乃は、玄関へ向かうと、目の下にクマを作り、疲れ切った彼らを、にこやかな笑みで向かい入れた。
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