逃げることは悪いことじゃない

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これは私が学生生活の中で実際にあった体験をもとに今の私までを描いています。そしてその中でだれか一人にでも困っている人に一つでも多い生きる選択ができたらと思います。 目次 ・初めてのいじめ ・進学 ・初めての学校拒否 ・進路 ・進学 ・退学 ・出会い ・現在 初めてのいじめ 私が初めて傷ついたと感じたのは小学生でした。 あまりいじめについて誰もがしっかりと考えることがない年ごろ。 私は幼いころから周りに比べて太っていました。 そのこともあってまだ人を傷つけるという行為がわからない私たちは、 よく人の容姿についてあれこれ言ってしまう頃です。 そんなある日私は、いつも話していた仲の良いグループから「デブ」と、急に言われました。男女ともに仲が良く、出会うすべての人たちが友達、そんな考えの私は、急に言われ、なんのことだかわかりませんでした。 私はそのころは自分の容姿について何も考えていない年でした。 しかしその言葉か何故か頭から離れず、その日から自分の容姿をほかの人と比べるようになりました。 しかし母や地域の人大人の人はみな、太っていないこれからまだ身長が伸びるから。とその年でダイエットは体に良くないと言いました。 私は容姿が気になりつつも大人の言うことのほうが正しいと思いあまり食生活や過度な運動などはしていませんでした。 今思えばこのころから容姿に気を付けていれば今とは違う人生だったのかもしれません。 私は小学4年にして自分の容姿を気にし、その年から周りに何気ないように「でぶ」と言われました。 進学 そんな私も中学に入りました。私の地域では三つの小学校から集まってきて中学になります。 今まで行ってきた人のほかにも二つの学校から来た人たちも加わり、さらに中学校生活で傷つくことになりました。 小学校までは言葉のみでしたが、中学では同じクラスの話したことがあまりない男の子からよく嫌がらせをされるようになりました。 それは、授業の中で人だけが席を移動するなどの時に私の席にその男の子が座るとき、大げさに嫌がり、自分の椅子を持って行ったり、わざわざ見えるようにアルコール液を椅子に掛けたりしていました。 周りの男の子たちもそれに面白がって乗り、私が授業でどうしても座らなければならないとき、私が座った後、雑巾で拭いたりとしていました。そんなことが半年ほど続きました。 そしてとある授業でまた席替えがあるとき運悪く初めて私にそのようなことをした人が私の席に座りました。 私はその時半年間のされたことが頭をよぎり、何も見たくなく、聞きたくなく、両耳を赤くなるほど押さえ、目をつぶって震えました。 それからしばらくして先生がその様子に気づき私のもとに来て「大丈夫?」と聞いてくれました。その言葉を聞いた途端私は涙があふれ息ができなくなり保健室へと先生に連れられ行きました。 そこであったことを話そうとしましたが、うまくすべてを伝えれませんでした。 それでも何とか伝えたく並べることのできない言葉で必死に伝えました。 すると担任の先生がその男の子と話をしてくれました。しかし、ただ一人に話したところでどうにかなるわけもなく、同じような嫌がらせは続き普通に今まで話していた男の子さえ私から距離を置くようになり、荷物が近くにあり取ってほしいと伝えると汚いものを持つような持ち方で私のカバンを持ちました。 受け取り、ありがとうと伝えましたが、そのあと男の子たちと「うぇー」と話している声が聞こえ、あぁ、と思いました。 初めての登校拒否 それでも私は中学校生活の中でも幸せな時がありました。それは部活をしているときです。 私は筝曲という和楽器のことを幼いころからしていて、その影響で中学ではことの部活に入りました。 先生や周りの子たちはあまりいい印象ではなかったですが、それでも演奏をしている間は幸せで自分の世界に入ることができていました。 二年の文化祭で部活のことの発表があり部活のみんなで放課後話をしていました。しかしいつもながら一人の子がみんなを集めるときわざわざみんなを名前で呼び私以外の子が呼ばれていました。 それはいつものことであまり気にしていませんでした。というよりも毎度落ち込んでいたらきりがないと思っていました。 そして部活が終わり帰るとき私は一人の同じ部活のこと学校の駐輪場まで一緒に行きました。何気ない話をし、いつものノリで帰りました。 しかし次の日の文化祭、その子は来ませんでした。 そして数日後私は学級担任に呼び出されました。 先生とともに行くと、 校長先生と学級担任、そして担任の先生が居ました。 話を聞くと 学校を休んだその子が休んだ原因は私だとのことでした。 何の話か分かりませんでした。それからまた話を聞くと、私が帰りにその子にひどいことを言って傷つけた。とのことです。身に覚えがなくそんなことは言っていないと言いました。 先生は、とりあえずその子に明日謝ってくれ。と言いました。 後から何か言われるのは嫌だし、私が知らない間に無意識に傷つくことを言ったかもしれない。そう思った私は次の日その子に先生の前でしっかりと謝りました。いわれる言葉で傷つき苦しいのは今まで自分が体験して一番知っているからこそ、その子が傷ついていると感じるなら誠心誠意しっかり謝ろう、そう思いました。 しっかりと謝り、先生もその場にいて謝るところを見届けると、私たちに 「しっかり謝ったからこれでいいかい?」 と、その子に聞きました。その子もそれでいいと承諾しました。 そして先生は続けて 「じゃあ、謝ったからこの話はここまでな」 と、言ってくれました。 しかし、数日後 その子はあることないことを増やして学年中に私のことを広めていました。 そして部活も私のせいでやめるとみんなに言っていました。 その子は一組で私は五組でした。五組にその話が来る頃には全クラスに広まっていました。それから私はクラスで今以上に孤立してしまいました。 耳をすませば、 「やめるならお前がやめろよ」 「くずやろ」 等の声が聞こえました。 部活に行っても、 「やばすぎ」 等の声が聞こえました。 そして私は学校に行くのが苦しくなり、今まで行きたくないと思っても進んでいた足が立ち止まりました。 わざわざ嫌がらせを受けるために学校へ行く。 そのことがつらく、考えるだけで気分が悪くなりそれから学校に行くのに毎日朝吐いてから学校に行っていました。そんな私は限界で、母に初めて打ち明けました。 しかし打ち明けるにもすんなりとは言えず、 恐る恐る 「お母さん、、、、、、もし、私が、学校に行きたくない、そういったらどうする」 と話しました。 母は、何かがあったのだと気づいてくれ、話を聞いてくれました。 そしてその日から、私は学校を休みました。 けれど、思っていたよりも自分が受けた傷は大きくて、胃が痛く、まともに食事もできませんでした。 固形物はもってのほか、牛乳なども飲めず、水のようなサラサラのものはすぐに戻し、唯一常温の豆乳のみ口にできました。 それでもストレスから戻すことは多く、健康的ではありせんでした。 父にも學校にいけないことを話しましたが、父は 「なんやそれ」 の一言でした。 父はもともと我慢強く、なんでもできるため、私は逃げている。と思ったらしいです。 そして母は、今回だけよ、今回が最後で逃げるのは終わりといいました。 二週間ほどたったある日、学級担任と担任の先生が家に来ました。 そして謝罪をしてくれました。 そして母は、先生が謝ってくれたのだから、明日から学校へ行きなさいと言いました。 私は何もできず、次の日から学校に行きました。 頭が真っ白で何も考えれず、ただ給食も食べられないので、学校に話して豆乳を昼ごはんに持って行っていたことは覚えていました。 それからも小さな嫌がらせは続き、親にも相談できない私は、唯一話を聞いてくれる支援学級の先生に相談をしていました。先生は、この学校に長くいて校長先生ともよく話をするらしく、学校でパニックになる私に一人になれるスぺースを空き部屋で学校に用意してくれました。 それまではことあるごとに保健室に行き、授業に出ませんでした。しかし、保健室は必要とする人がいるためとのことで悩んでいた時に用意してくれました。当時の学年の先生にも話をしてくれており授業中も先生に言わず無言で教室から出てその部屋に行っていいと言われ少し楽になりました。 進路 そんな日々が続き、三年になった私は、高校のことを考えるようになりました。 いじめのない学校に行きたい。そう思いました。 けれどまともに授業を受けていない私が、成績がいいわけがなく、授業もわからなかったため必死に勉強をしました。 朝五時に起き五時半に家を出、六時に学校につき勉強、放課後勉強をし、六時に下校、帰宅し、ふろと食事が終われば、十二時まで勉強、遅ければ二時の日も。そんな生活が忙しくでも周りを見る余裕がないもが過ごしやすい。そんな日々でした。 しかしそんなに長くはできず、受験一か月前、ストレスなどにより右耳を突発性難聴が来ました。それにより入院になりました。 退院後何とか受験には間に合い、高校に合格しました。 進学 春になりコロナの影響で入学が遅れるも高校に無事入学しました。 始まりはよく、仲のいい友達が二人できました。 それからしばらくは幸せでした。 しかし十月ごろに私はその友達二人から距離を置かれるようになりました。 何かした覚えはなかったです。それからどんどん日が流れるにつれて、また孤立してしまいました。それでも縁があり、二年に上がると仲の良い子が一人できました。しかしそれも長く続かず、その子は学校を不登校になりました。 それでも悪いことがあればいいこともあって私には遠距離ながらに彼氏ができました。 私の日々の幸せは彼氏そのものでした。 しかし学校では孤立状態で担任の先生も見て見ぬふりをしていました。 一番困ったのはグループ活動です。 先生が決めたグループはいいですが個人で決めるときは厄介でした。 だれも組んではくれません。 二人一組と言われても三人グループを作ったりと、、 先生もそれに対して何も言わず、私は授業に強制的に参加できないこともありました。 また登下校の電車の中でも他校や本校の生徒がわざわざすいているのに私の隣に座っては、「うぇ、おぇ、」と言って逃げたりしていました。 そのため私は往復32キロの道を自転車で登下校しました。 学校に行く意味が分からず。やめるにも親には中学で逃げるのは最後と言われ、とうとう成績表では参加しなかったのではなく参加できなかったものに単位はつけてくれませんでした。 事情を話したく、相談したくて先生を呼びましたが今忙しいといつも断られ、ラインで相談を送っても既読無視をされ続けました。 退学 そんなことが何か月もあってしばらくした日、 私の誕生日のひ、家族と遠距離の彼氏がわざわざ私に会い来てくれて、祝ってくれました。 その日は今までの中でも本当に幸せな日でとても楽しくてあっという間に過ぎていきました。 そして私はまた明日からあの嫌な生活が始まるんだと思うと 頭の何かがぷつんと切れました。 そして私はこの楽しい幸せで終わりたいと思い死のうとしました。 死にたいと思ったのに変わりはないですが、はっきりと意識がない状態で、ふらふらっとバイパスに歩いて行ったそうです。 そしてバイパスにでる直前で彼氏が私を止めてくれました。 私はもう逃げることができない、その中でつもっていったすべてを自分じゃ支えることができませんでした。 そのあと私は母と父から怒られ、今後どうするかは自分で決めろと言われました。 その時私の頭には今は休みたい、逃げたい。そのことしかありませんでした。 そして考え抜いた末、私は転校を決めました。 それは通信高校でした。 なるべく人に会わずに卒業資格が欲しい。 そう思ったからです。 他人の目は冷たいものかもしれない。それでも今よりかはきっといいと思いました。 出会い それから私は通信高校へと転入しました。 しかしそれは私にとっては今までにないくらい過ごしやすい環境で自分に合っていました。 自分で授業を組み一対一で授業を受けられる。 先生が合わなければ自分にあう先生とチェンジができる。学校自体も基本行きたい日だけでいい。それが自分にはすごくあっていました。 もちろん単位取得試験があり県外にテストをしに行く日や必要な単位の管理は自分で。それでも初めて自分に合った学び方を見つけました。 それからは、空いた時間にバイトをしたり、その学校でできた友達と遊んだりできました。 現在 今は高校を無事卒業し、彼氏のいる県で一人暮らしをしています。 一人暮らしは初めてで手探りなことも多く、仕事も合わなくてやめては新しいところを探したりととてもいい状況ではありませんが、一番つらいときに比べると毎日楽しくできています。 仕事いくつか受けて気づいたことは学歴などを重視する会社もありますが、 私のような通信高校でも働ける会社もありこれから先自分にきっと会う職業も見つかるだろうと思いました。 今はまだ安定しないけど自分を少し好きなれ、日々を楽しいながら生活できています。 最後に 今しているものだけがすべてじゃなくてきっと自分に合った生き方が見つかるのだとわたしは思いました。いろいろな気持ちや悩みがあって大きなかべにぶつかることも必ずあるけど、今自分が歩んでいるものだけがすべてではなくできない、進めないと思ったら、違う道に切りかえてみることが一番大切だと思いました。きっと違う道に切り変えるには、大きな勇気が必要で、なかなか踏み出せない。それでもその一歩が自分を好きになれる、楽しくなれるものだと信じています。できないことややりたくないものは、無理やりするのではなく、考え方や行動を変える。それが私にとっては自分をなくさず、見失わず、人生を歩んでいけることだと思いました。 自分自身やお子様が悩んでいるとき今を否定するのではなく受け止めて新しい道を探す。それがきっと人生を一歩進める勇気につながると思います。 辛いだけが人生じゃない。そう思える日が来るようにゆっくり一緒に探していきましょう。
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