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「二人とも可哀想に。槙田先生に怒鳴られたことがあるからすっかり怯えちゃって」 「怒ったのはたった一回だけだし、理不尽に怒鳴ったわけじゃないもん」  病棟に向かって歩き出すわたしに、槙田先生が後ろから付いてくる。内科から患者が回ってきたとか、薬を飲んでくれない患者に困ったとか、仕事に関するちょっとした愚痴を聞かされた。  土曜日に槙田先生と出掛けてから、槙田先生とまともに会話をするのは五日ぶりだった。日曜日は槙田先生が夜勤だったし、月曜日はわたしが夜勤で、火曜日は夜勤明けだったから寝ていたし、水曜日は朝から晩まで手術に入っていた。まめに電話やメッセージを送り合うようなこともしない。こうして何事もなかったかのように喋りかけられると、土曜日のことは夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。もともとわたしは都合のいい夢をよく見るし。乗り込んだエレベーターの中には誰もおらず、思いがけず二人きりになり、槙田先生は唐突に話を戻した。 「……デレデレしちゃって」 「さっきの遠野くんですか? デレデレなんてしてませんよ」  悪い気はしなかったけれども。 「そっちこそ割り込んできて、ヤキモチ妬いちゃって」 「そりゃ彼女が若い男に口説かれそうになってたら嫌でしょ。あんまりヤキモチ妬かせないでね」  予想しない答えが返ってきてわたしは槙田先生を見上げた。いつもの感情が読めない、眠そうで気怠そうな顔。目が合うと槙田先生はじっとわたしを見つめ、ニヤリと口角を上げた。 「な、なんですか」 「こないだの車の中での橘先生、エロかったなと思って」  夜のテンションで変な気分になったことを指摘されて顔から火が出るかと思った。舌が回らず、あたふたしているうちにエレベーターが五階で止まる。 「またデートしようね」  槙田先生はそう残して先にエレベーターを下り、わたしは何も言い返せないままドアが閉まってしまった。  槙田先生の言葉には簡単に踊らされてしまう。それを分かっていて彼もわざと言うのだろうが。好きになってもやっぱりムカつく男。それなのに許してしてしまうのが、惚れた弱味ってやつなのだ。
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