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 ――― 「橘先生、今日、一緒に帰れる?」  医局でそんな風に声を掛けられたのは初めてで、わたしは槙田先生を見上げてぽかんとしたのち、デスクの置時計に目をやった。事務作業に没頭しているうちに終業時間を過ぎていた。フロアの半分は電気が消されていて、人もまばらだ。 「もう少しで終わります」  槙田先生は隣の席に座って、回転椅子でくるくる回りながらわたしの作業が終わるのを待っている。右に一回転したら左に一回転、視界にチラチラ入ってくるのが気になって、「邪魔!」と一喝したら槙田先生は悪戯っ子みたいに笑った。 「何、作ってんの?」 「明日のカンファで出す資料。……槙田先生、高坂さんの手術日、決まりましたよ」 「あー、ねー。どうしようかね」  天井を仰ぎながら他人事に言う。 「しますよね?」 「……うん。でも最近頑張りすぎちゃったから、ちょっと休んでもいい?」  槙田先生は椅子を転がしながらわたしに近付き、デスクの下で手を握った。人が少ないとはいえ、こんなに密着していたらバレるんじゃないだろうか。わたしは挙動不審になっているというのに、槙田先生は落ち着き払っている。周囲に誤魔化すようにわざと大きめの声で「ねえ先生、これちゃんとPETしたの?」なんて仕事の話を振りながら、膝の上ではしっかり手を繋いで親指の腹で甲を撫でられた。ここ最近忙しくて二人きりになる機会すらなかったから、予期しないスキンシップに心臓がいつもより早く鳴る。  手を離した槙田先生は「じゃあ、明日のプレゼンよろしくね」とまた大きな声で言い残して席を立った。そして最後に、 「久しぶりに触れてよかった。ありがとう」  低めの小さな声でそう言って、槙田先生は先に帰ってしまった。一緒に帰るんじゃないんかい、と心の中で突っ込みつつ、まだ手に残る槙田先生の感触の余韻に浸った。あんなことで疲れも暗い気持ちも吹き飛んでしまうわたしはちょろい。  ――たった今、はっきり自覚した。  最後までできなくていいと槙田先生には言ったけど、本当は心置きなく体を重ねたいのは、わたしの方なのだ。済まなそうに笑う顔は見たくない。やっぱり槙田先生には、克服してもらいたい。
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