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「ほら、さっさと手を動かして」
「ね、怖いでしょ」
以前は右迷走神経が現れた辺りで手が止まったと聞いたが、雑談を交えたことで肩の力が抜けたのか、槙田先生の手はまだ動いている。現れた迷走神経をテープで固定し、動脈をくぐるややこしい反回神経も難なく見つけ出す。切るべき組織、残すべき組織を冷静に見極めていった。
そしていよいよ気管支動脈の切離に入る。細い分枝を気付かず傷付けてしまったという、イップスの原因でもある箇所だ。槙田先生は途端に目をしぱしぱさせて、何度も深呼吸を繰り返した。そろそろ代わろうか。だけど本人はまだやる気みたいだし。手が震えだしてから交代するか。でも操作を誤ってからじゃ遅いし。そんな風に逡巡していたが、やっぱりわたしは患者のことも槙田先生のことも諦めたくなかった。険しい表情をする槙田先生に訊ねた。
「血が怖いわけじゃないんですよね?」
槙田先生はハッとしてわたしを見た。
「患者が死んでもいいやと諦めてしまうかもしれない自分が怖いんですよね。でも今、あなたは患者を死なせたくないからオペしてるんでしょ」
「……うん」
「なら、大丈夫です。死なせたくないと頑張ってるあなたが患者を諦めることは絶対ない。もし血管を傷付けてもわたしが止血するので任せて下さい」
ほんの数十秒ほどではあったけど、槙田先生は手を止めたまま術部を眺め、次に顔を上げた時には腹を括ったような、幾分勇ましい眼をしていた。
「3D画像見ました?」
「うん。血管の走行は覚えてる」
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