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緊急の手術もなく、病棟の様子も落ち着いているようで、久しぶりに早く仕事が終わった。疲れた体を吹き抜ける風は薄手のトレンチコートで充分凌げるほど冷たさが和らいだ。空は日が落ちて暗いけれど、大通りを忙しなく行き交う車や休日前の夜に浮かれた通行人がたくさんいるおかげで夜道も怖くない。小さく光る星に気付いて上を向いて歩いていたら、
「転ぶよ」
歩道橋の手摺りから顔を出している槙田先生を見つけた。階段を駆け上がると、槙田先生は吸っていた煙草を灰皿に入れた。
「もう帰ったのかと思いました」
「今日は風が気持ちいいから、一服してた」
そう言ってわたしの隣に移動する。
「――ってのは嘘で、待ってたの」
手を握られる。やっぱり温かい手だ。反対に槙田先生は「相変わらず冷たい手だね」と笑った。どちらからともなく動いて、揃って歩き出す。足は自然とわたしのマンションに向かっていた。
「高坂さん、もうすぐ退院ですね」
「とりあえずねー。転移するかもしれないし、治療はまだ続くんだろうけどね」
面倒臭そうな物言いだが、顔つきは穏やかだ。
「皐月さんにも会いました?」
「なんで? 会わねぇよ。ああ、病室でお礼言われたけど」
結局、槙田先生が皐月さんへの蟠りは解けたのか、解けたことで少しでも皐月さんに心が揺れたりしなかったのか、聞いても仕方のないことを聞いてみたい気もするし、聞きたくない気もする。槙田先生はわたしの考えを読んでいるかのように話しだした。
「実はさ、前に皐月と二人で会った時に、改まって謝罪されたんだよね。俺が仕事ばっかりで寂しかったとはいえ不倫した自分が悪かったって、今更。出会ったのは結婚前、肉体関係になったのは結婚後。その人と一緒になりたいから離婚したというより、俺が自分と一緒にいても幸せになれないと思ったから離婚したって言うんだよ。綺麗ごとじゃね?」
「都合良くは聞こえますね」
「でも、俺のことはちゃんと好きだったって言ってくれてさ。なんか、もういいやって。それが嘘でも本当でも、一緒にいた時間が無駄じゃなかったんなら」
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