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やっぱり槙田先生は皐月さんを愛していたのだ。愛してなければ結婚しようとは思わないだろうけど。自分は愛していたのに相手は愛してくれていなかったと思っていたこの数年、皐月さんの本心を知る術がなくてどれ程もどかしかっただろう。
「橘先生、ありがとうね。手術をするきっかけを与えてくれたのは高坂さんかもしれないけど、俺を叱咤激励してくれたのは橘先生だから、原因を一緒に取り除きたいって言ってくれたの、めちゃくちゃ嬉しかったから、克服できたのは橘先生のおかげ」
わたしはずっと、槙田先生のイップスを治すのは自分でありたいと思っていた。わたしが槙田先生のトラウマを取り除けたら、わたしは槙田先生にとって一番特別な存在になれるかもしれないと勝手に期待していたから。欲しかったはずの言葉をくれて嬉しい。嬉しいのに、なぜかそれを素直に喜ぶことができなかった。
いつの間にか大通りから路地に入っていて、マンションが近付いてきていた。
「……わたしは別に……引っ叩いたくらいで」
「あれ、ほんとに鼓膜死んだかと思った」
「わたし、槙田先生に皐月さんと話し合えって言ったくせに、本当は嫌だったんです。もし皐月さんに心が戻ったらどうしようって思ったりして」
「ありえないでしょ」
「とは、分かっていても、嫌だった。ずっとオペを怖がってたのに皐月さんの言葉一つで動かされてたりして、それも面白くなかった。わたしだけの言葉じゃ槙田先生を変えられないんだ、わたしが一番でありたいのにって拗ねて。自分勝手ですよね」
そんな幼稚な自分を思い出したら恥ずかしくて、それなのにお礼を言われるなんて申し訳ない気さえする。だが、槙田先生は素っ頓狂な顔と声で「違うよ?」と否定した。
「皐月の言葉でやる気が出たというより、あいつが俺のイップスを治せるのは自分しかいないみたいな言い方するから、『イヤイヤ違うよ、俺は橘先生と治すんだ』って改めて思ったから頑張れたんだよ。別に皐月に未練があるとかじゃないから、勘違いしないでよ」
マンションに到着し、槙田先生は手を離してわたしの前に回った。
「でもやっぱ一番効いたのは『例え完治できなくても目の前にいる患者を見捨てるような真似はしない』って言われたことかな。イップス克服する以前の問題じゃんって。俺、医者なんだよなってさ。……今まで『なんのために』なんて考えたことなかったけど、存在意義みたいなの自覚させられたから。本当にありがとう」
ようやくじわじわと喜びが込み上げる。「皐月さんと話し合ってこい」と言ったことを後悔した瞬間もあったけど、こんなにもスッキリした顔の槙田先生を見られたのだから、あの時背中を押してよかったと今、ようやく思えた。心から「どういたしまして」と笑える。
「はい、じゃ、仕事の話は終わり」
いくら夜とはいえ、いつ誰がマンションを出入りするか分からないのに、槙田先生はいきなりわたしを抱き寄せた。そして耳元で言う。
「部屋に上がってもいい?」
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