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うどん屋を出ると湿った空気が肌につく。街中なのにどこからともなく聞こえる虫の声。ついこの間まで真冬の風にブルブル震えていたのに、今ではハンカチを扇ぐ手が止まらない。人目も憚らずゲフ、とげっぷをする槙田先生を拳で突き、一日を振り返りながら歩く。相変わらず毎日仕事に追われる日々だが、一日の終わりにこうやって一緒に過ごせる相手がいることが、とても有難いことだとしみじみ思う。
仕事も家事もなんでもできるなつきちゃんのようになりたかったその昔。今思えば、なつきちゃんだって上手くいかないことやイライラして八つ当たりすることだってあったに違いない。失敗もすれば喧嘩もしただろうし。現実は上手くいかないことが多いから、その分些細な幸せに喜びを感じることができるのだと、この歳になってやっと知った。
いつもの歩道橋の階段を上がった時だ。橋の真ん中で槙田先生がふと足を止めた。
「ほんとは楓子ちゃんの誕生日まで待とうかなって思ってたんだけど、予想外に早く届いてさ」
「何が?」
どうしよっかなー、と勿体ぶりながら槙田先生がポケットから取り出したのは、なんだか妙に興味をそそられるベロア生地の小箱。槙田先生がその小箱の蓋を開けると、中には存在感のあるダイヤの指輪が。メレダイヤが埋め込まれた細身のアームの中心に円形のダイヤが鎮座していて、豪華で品のある、まごうことなきエンゲージリングだった。しかも、
「ちょっ、それっ、なんで!? なんで分かったの!?」
わたしがいつか贈られるならこれ、と心に決めていたブランドのものだったのだ。しかもデザインまでドンピシャだ。槙田先生は溜息をつきながら言う。
「なーに言ってんの。俺の横でずーっと検索してたじゃん。チラチラ視界に入ってくるから覚えちゃったよ。なんのアピールかと思ってたわ」
「アピールなんてしてないけど?」
「え……無意識……? 怖……」
わたしからすれば言ってもない望みを知っている槙田先生のほうが怖いけれど。
「まあ、いいや。左手貸して」
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