槙田陽太 1

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 *** 「……楓子ちゃん、まだ怒ってるの?」  彼女が機嫌を損ねてから早数時間。じき日が暮れようとしている。よく何時間も臍を曲げていられるなあ、と、ある意味感心した。もちろん彼女からの返事はない。ソファに突っ伏して不貞腐れている彼女の背中を、俺はどうしたらいいのか分からず、ただ正座して後頭部をポリポリと搔くしかなかった。  楓子ちゃんは俺と同じ職場の、俺と同じ消化器外科医。で、俺の恋人なのである。  迷いのない的確な診断、確かな手術の腕、人当たりのいい笑顔と気さくな姿勢から他の医師や看護師、患者からも支持率が高い、申し分のない外科医だ。しかもどんなに忙しくてもいつも身なりを整えていて、くたびれた姿は絶対見せない意識高い系ときた。そんな普段の努力の甲斐あってか四十にしては若々しくて少女のような可愛らしさもある、才色兼備という言葉が相応しい女性だ。  馴れ初めは割愛するが、あれほど女なんてこりごりだと思っていた自分がまさか同業者と付き合うことになるとは思わなかったが、そんな楓子ちゃんを俺は医師としても恋人としても素直に尊敬している。  ……すぐ怒るところを除けば。 「せっかくの休みなのにこんなムードで終わるの、嫌なんだけど」  そう言うと楓子ちゃんがようやく顔を上げて俺に振り返った。眉を寄せた不機嫌そうな顔で睨んでくる。 「せっかくの休みを台無しにしたの、そっちじゃない。今日は朝から式場見に回ろうって言ってたのに、昼過ぎまでイビキかいて寝てたの誰よ」 「俺です」 「起こしても起こしても起こしても起こしても起きないし、やっと起きてきたと思ったらもう一時で、それでもマイペースにちんたらするし」 「でも一時半には準備終わってたよ。それからでも充分間に合ったでしょ?」  ちがーう! と、いきなり叫んで、楓子ちゃんは両拳をソファにボフン、と叩きつけた。 「わたしは朝から動きたかったの! 昼は外でランチもして買い物にも行きたかったの! そのつもりで準備してたのに大幅に予定狂わされたわたしの気持ちはどうしてくれるのよ!」  俺はそもそも今日のメインは式場を回ることなのだから、少々予定が狂ってもすぐに立て直せるじゃないか、と考えていた。先にランチをしてから式場を回ってもよかったのだし。って返せば、きっとまた怒られる。
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