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 ***  翌朝、出勤するなり医局の中は何やら不穏な空気が漂っていて、若手の医師たちがおろおろと忙しなく動いていた。急患か容体の急変か、何事だと訊ねるより先に槙田先生の怒号が響いた。 「山田さんはアンタの担当患者でしょうが! 術後の回診怠るとか何考えてんだ!」  槙田先生は医局の真ん中で、他の医師の目もあるというのに山本先生を叱責している。山本先生は俯いて縮こまりながらも、小憎たらしく唇を歪めていた。山本先生の隣ではなぜか看護師の福沢さんがシュンとしている。 「どうしたの?」  すぐ傍にいた伊藤先生に訊ねると、小声で教えてくれた。 「五日前に手術した山田さん、山本先生の担当患者なんですけど、術後に一度も回診しなかったみたいで。山田さんはずっと不調を訴えてたけど、結局イレウスになって」  イレウスとは腸の動きが悪くなって内容物やガスが詰まってしまう、開腹手術後に起こりやすい合併症だ。イレウスに限らず、術後は様々な異変を考えて患者の容体を入念に観察しなければならない。腹痛がないか、腸の音はおかしくないか、ガスは出たか。山本先生はそれをしなかったのだろうか。 「福沢さんはなんでここにいるの?」 「山田さんから腹痛があると言われていたのに、山本先生の指示がなかったのを理由に何もできずにいたらしいです」 「なるほど」  医師の指示がなかったとはいえ、患者の容体や症状に異変を感じながら放置したのはいただけない。槙田先生の怒りはごもっともだ。ただ、 「槙田先生、その辺でよろしいのでは? 他にも言いたいことがあるなら個別にお願いします」  わたしがそう割り込むと、槙田先生はギッとわたしを睨んで「重症化してからじゃ遅いんだよ」と吐き捨てた。 「それはそうですが、……他の先生が見てます」  みんなの前で怒鳴り付けるのは山本先生と福沢さんの名誉のためにもよろしくない。そう耳打ちすると槙田先生は踵を返し、白衣の裾を靡かせながらドスドスと医局を出ていった。途端に福沢さんに泣きつかれる。 「橘せんせぇ~! 槙田先生、何もこんなところで怒鳴らなくても~っ」  どちらかというとわたしも怒鳴りたいくらいだが。苦笑いで福沢さんの肩を撫でる。 「山田さんの処置は?」 「山田さんの嘔吐に気付いたのが槙田先生だったんです。先生がイレウス管を挿入して下さいました……」 「今後は何か気付いたらすぐ報告して」 「ふん、手術はできないくせにイレウス管の挿入はさすがにできるんだな」  山本先生がずれた眼鏡を直しながらドカッと椅子に腰かける。自分の非を認めたくない、という態度だ。もとはと言えばこの人がきちんと回診をして患者に気を配っていたら防げたことだろうに。 「山本先生、そんな言い方は……」 「あなたもそう思うでしょ? 橘先生。どんな簡単な手術でも絶対にやらないくせにえらそうに指示だけはするんだから。僕ぁ、槙田先生にだけは言われたくないんですよ」
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