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 ついでに風が強いことも、今日がこの冬一番の寒さであることも忘れていた。槙田先生は遠い目で煙草をふかしながら、すっかり静まり返った大通りを見下ろしている。独り言のように当時のことを語りだし、わたしは気付けば槙田先生の眠そうな、怠そうな落ち着いた声に耳を傾けていた。 「別にロマンチックなもんでもないよ。学生の頃に知り合いの紹介で出会って、タラタラ付き合って、研修終わってやっと一人前って頃に結婚した。でもホラ、大学病院って今の病院と違ってクソ忙しいでしょ? あんまりかまってあげられなかったんだよね」 「……でも、研修医の頃もけっこう忙しかったでしょう?」 「結婚した頃って、仕事に慣れてきて調子乗ってる時だったんだよ。楽しかったから。オペ入りまくって、家に帰ったわ呼び出されたわ、たまに休日があれば論文書いてさ」  オペをしていた、ということは、槙田先生は紛れもなく外科医なのだ。 「かまってあげられなかったから、知らないうちに奥さん浮気してた。ほったらかしにしてた俺が悪いみたいな空気になって離婚した」  わたしはふいに和樹のことを思い出した。生活環境が違うのが寂しかったからと疎遠になった学生時代。傍にいて欲しい時にいてくれないのは無理と言われた夜。わたしはあの時、こういう立場にあることを理解してくれていると思っていたのに、理解してくれていなかったことがショックだった。医学部に行くことは知っていたでしょう、わたしが医師だと知っているでしょう、と。だから離婚した時の槙田先生がどんな気持ちだったのか、先生本人の口から聞かなくても容易に想像できた。 「よくよく聞いたらさ、彼女、結婚する前から浮気してたみたいで。いや、もう俺が浮気相手だったのかな、その辺は分かんないけど」 「先生が浮気相手なら結婚しないでしょう」 「さあ。医者だから結婚したとか言われたよ。ひどくね?」 「それは……なんというか……」 「優しくていい子だったんだよ。素朴で。そんな子に浮気されて俺の肩書きと結婚したんだとか言われたらさ、女って怖ぇなって思っちゃって。もう結婚も彼女もいらねーやって」  みんながみんなそうじゃないですよ、と言おうとしてやめた。お前が言うなと言われそうだからだ。
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