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「橘先生、五一一号室の田中さん、吐き気を訴えてたんでプリンペラン処方しておきました」  手術記録を書いている時だった。夕方の回診に行っていたはずの遠野くんが戻って来ていて、背後から話し掛けられた。 「あっ、ああ、うん、ありがとう」 「それから、太田さんはかぶれてたんで亜鉛華軟膏を」 「ええ、それで処方しておいて」 「あ、処方はしました。一応ご報告を思って。カルテ整理して、手術の予習しますね」  と、微笑んでわたしの隣のデスクに着席した。恐ろしいほど仕事ができる予感しかない。暫くそれぞれパソコンに向かってカタカタとキーボードを打っていたわたしたちだが、なんとなく沈黙に耐えきれず、こっちから話を振った。 「遠野くんはなんで消化器外科にしたの?」 「両親とも外科医なんです。母が心臓外科、父が脳外科で」 「心外と脳外は考えなかったの?」 「二つとも外科の最高峰って感じで迷ったんですけどね。でも消化器外科ってやっぱ外科の王道じゃないですか。それに両親は脳外、心外専門で開業してるんですけど、そこに消化器が加わったら最強かなって思って。親子でそれぞれ違う専門分野で一緒にクリニックを持つのが小さい頃からの夢だったんです」  それを聞いただけでもかなり行き届いた教育をされたのだと分かる。勉強はもちろんだけど、きっと愛情をたっぷり注がれてきたのだろう。  わたしの父も医師なのよ、と言えばそこからまた会話が広がるかもしれないが、わたしには遠野くんのような美しい目標を持っていない。「なんで眼科を選ばなかったんですか」とか「なんで医師になったんですか」とか聞かれたら、自信を持って言える答えがないので黙っておく。 「家族思いの素敵な息子さんで、ご両親も鼻が高いでしょうね」 「そんなことないです。僕は自分のやりたいようにやってるだけなんで」 「なんでこの病院選んだの? もっと大きくてオペ数の多い病院あったでしょ?」  すると遠野くんは「え?」と目を丸くしてわたしを見る。 「この病院に、消化器外科の名医がいるって聞いて選んだんですけど」 「誰のこと?」 「名前は分かりません……」  この病院の消化器外科医の面々を思い浮かべても、申し訳ないが名医と言われるような先生はいない。しいて言うなら川上先生か。もしかして、わたしのこと? なんちゃって。 「この病院、婦人科と小児科は有名なんだけど外科はちょっと分からないわ……。ごめんね、わたしも外科医なのに力になれなくて」 「あ、でも橘先生みたいな綺麗な先生がオーベンで、そこはラッキーでした」  今度はわたしが目を丸くして遠野くんを見据えた。あどけない笑顔でいとも簡単に上司の懐に入りこめるのは才能だ。処世術でもそういう風に言われるとやっぱり嬉しくはあって、わたしは不自然に「もー」とか照れながら遠野くんの右腕を叩く。そのタイミングでデスクの前を槙田先生が通りかかる。完全にデレついたわたしを見て、ニィ、と意地悪く笑って去った。 「……さ、カルテの入力さっさと終わらせましょうか」 「はい」
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