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口を金魚みたいにはくはくさせながら青ざめた。わたしは病院の近くの住宅街にあるマンションで一人暮らしをしている。そこそこ高級マンションなのでそれはいい。だけど家の中はいかにもズボラな独身女の住処といった、お世辞にも綺麗とは言えない状態だ。出しそびれたゴミ袋もあるし、キッチンには洗っていない食器が溜まったまま。室内に干しっぱなしの洗濯物。……ハッ! ベージュのババくさいブラとショーツも見られた!?わたしが今まで必死に築いた「才色兼備の橘先生」像はガラガラと音を立てて崩れ始めた。
「大丈夫だよ、ベージュのパンツなんて見てないから」
「見てるじゃないですかッ!!」
わたしは槙田先生の白衣の襟を掴んだ。
「絶っっ対、誰にも言わないで下さいね……!」
「何を? 酔っ払って『誰か結婚してくれ』って叫んでたこと? 白目剥いてぶっ倒れて、ひと騒動起こしたこと? 皺くちゃのフェイラーのタオルハンカチが鞄に入ってること? 糸がほつれたベージュのブラとパンツ穿いてたり、ゴミや服が部屋に散らかってること?」
「全部です!!」
間抜けた顔して細部までしっかり見てやがる。槙田先生の、軽蔑して面白がっている眼。最悪だ。なんでよりによってこの人に。駄目なところを全部見られたことも、それを小馬鹿にされていることも、誰か悪い夢だと言って欲しい。真っ青になっているわたしを少しは哀れんでくれたのか、槙田先生は途端に真面目な顔になって「言わないよ」と約束してくれた。白衣を掴んでいるわたしの手をゆっくり外す。
「橘先生の私生活を言いふらしたいと思うほど俺はきみに興味ないんでね。そんな噂広げたところでなんの得にもならないし。橘先生が二日酔いで診察してたら迷惑だなって思ったんで声掛けたけど、大丈夫みたいなんでこの話はこれでおしまい」
勝手に完結する槙田先生にわたしはまだ戸惑っていたが、先生はそんなわたしをよそに階段を上がろうとする。そして振り返って最後に追い打ちをかけた。
「心配しなくても、きみは絶対結婚できないから」
はっきり断言されて、こんな失礼な男を目の当たりにした驚きで絶句した。わたしは何か言い返してやろうと両手を上下に揺らしたり口をぱくぱくさせたが、槙田先生は軽快な足取りで階段を駆け上がって行ってしまった。
「アンタに言われたくないわ!」
と、ようやく一声上げたのは、姿が見えなくなってからだった。
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