10.「お前が好きだ」

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「あすか」 低くて少し甘くかすれた声に初めて名前で呼ばれて、ぶわっと身体が熱くなる。 ずっと俯いていた顔を咄嗟に上げると、先程の怒っていた顔ではなく真っ直ぐに私を射すくめるような瞳で見つめられた。 掴まれた手首が熱い。 頭の中で警告音が大きな音で鳴り響いている。 早く。諦められなくなる前に、早く……。 「……離してください」 「あすか、聞いて」 「嫌です、離して。離して……っ!」 「お前が好きだ」 「……え?」 ぶんぶんと振り払おうとしていた手を止め、目の前の翔さんを見上げる。 何を言われたのか理解できず、ただ彼からの次の言葉を待った。 「好きだ。あすかだってわかってたはずじゃなかったか?」 「……嘘っ!」 首を横に振り睨みつけるように叫ぶ。 ずっと待っていたはずの言葉に喜ぶことも出来ず、力の限り腕を振って翔さんの手を振り解いた。 翔さんの眉間にグッと皺が寄る。 「なんで嘘なんだよ」 「だって、だって紅林さん!」 「さっきから何で紅林さんが出てくんの? 関係ないだろ」 「電話で告白してた! 好きだよって! 不倫なんかさせない、泣かせないって……」 先程聞いた翔さんの紅林さんへの言葉を思い出し、自分で言いながら胸が潰れそうに痛い。 つい数十分前には彼女に電話で愛を囁いたばかりなのに、なぜ私にこんなことを。 もう翔さんが何を考えているのか全くわからない。 「は? あ、あぁ。お前、電話聞いてたのか」 一瞬何のことかわからないといった顔をしたあと、バツが悪そうに顔を背けた。 それが酷くショックで、わかっていたことなのに現実に打ちのめされたようにまたぽろぽろと涙が溢れてくる。 泣きすぎたのかしゃっくりまで出だして、まるで子供のようだ。 「ったく。あすか、よく聞いて。全部お前の勘違いだから」 だから泣くな、と優しく涙を拭う指が目尻に触れる。 両手のひらで頬を包むと、もう何も考えられなくなった私にそっと触れるだけのキスを落とした。 「俺が好きなのはあすかだけだ。話聞いてくれるか?」 * * * 翔さんが捕まえたタクシーでやってきたマンション。 お邪魔するのは二回目とはいえ、前回来た時は気付いたらベッドに寝ていたので自分の足で歩いてエントランスをくぐるのは初めて。 オシャレな茶色い大きな扉を入ると、右手には管理人室の小窓がある。この時間はもう無人になっているらしくカーテンが引かれていた。 オートロックを解除し、エレベーターで最上階の十二階まで上がる翔さんのあとに無言でついていく。 タクシーに乗る前から繋がれた手は、車内でも今もそのまま。 玄関を上がり右手に折れて奥のリビングルームに通される。 大きなソファを見て、前回来た時は私のせいで翔さんはここで寝たんだなと少し冷静に思い返した。 「座ってて。コーヒーでいいか?」 「お構いなく」 「なに、酒がいい?」 「……コーヒーください」 意地悪く笑ってキッチンへ消えていった翔さん。いつもの軽いやり取りに少しだけホッとする。 L字型の大きなグレーのソファには座らず、ソファを背にしてローテーブルとの間の床に腰を下ろした。 キョロキョロと部屋を見回したり、背中にあるソファカバーの肌触りの良さを堪能している間に、コーヒーのいい香りをさせながら戻ってきた翔さんは「なんで床なの」と笑いながら、ふたつ持っていたマグカップのひとつを私の前のテーブルに置いてくれた。 「お前はカフェラテな」 そう言って私の座る斜め前あたりの位置に陣取り、ソファに腰を落ち着けた。 わざわざ牛乳を温めて作ってくれたカフェラテを一口飲む。控えめな甘さに冷えていた身体も心もホッと緩んだ。 「おいしい」 「そ、よかった」 床から見上げるため図らずも上目遣いで少しだけ微笑みかけると、応えるように笑顔を向けてくれる。 だけどそれも束の間。マグカップを置き、話を始めようとした雰囲気に思わず肩に力が入る。 両手でカップを持ち、俯いたまま翔さんの方を見られなくなってしまう。 「それ。お前は何かあるとすぐそうやって目をそらす」 「べつに、そんなこと」 「先月のランチの時もそうだった」 紅林さんとの初対面の日を思い出し、モヤモヤした胸の内を思い出す。 あの時はとにかく二人が並んでいるのを見てるのが辛くて、キヨに甘えてお店を出たんだった。 持っていたカップを奪われてテーブルに置くと、肘あたりを掴まれて強引にソファの上に引き上げられた。 肘を掴んでいた手がそのまま腕を滑って上がっていき、肩を経由して顎を掴んで視線を固定される。
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