10.「お前が好きだ」

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「や、天野さん」 「なんで呼び方戻した?」 「だって」 「あすか」 名前を呼んでまっすぐに見つめる瞳。 話をするためにここに連れてこられたのなら、もう私に逃げ場はない。 観念するようにゆっくりと瞬きをしてから見つめ返す。 「まず、紅林さんとは何もないから」 初っ端から彼女の名前が出て、ビクッと身体が小さく跳ねる。 それを訝しげに見てくる翔さんの視線がいたたまれない。 「なんでそんな過剰に反応する? さっきの電話か?」 「……名前」 「ん?」 翔さんの、この優しく聞き返してくれる声が好き。 低くて甘い、穏やかな声につられるように、私はゆっくりと自分の感情を吐き出す。 「名前で呼んでた。翔って」 「あぁ、まぁ先輩だし呼び捨てもする」 「天野さんも、美樹って。だから……」 「確かに、紅林さんが関西に行く前の二年は企画部で一緒で仲が良かった。その前も教育係をしてくれてたし普通の先輩後輩よりは親密だったのも事実だ」 ついに紅林さんとの関係に話が及び、呼吸が浅くなり目頭が熱くなる。 視線を逸らさせまいと顎を掴んでいた手が頬に伸びてきて、まるで大丈夫だと宥めるみたいに耳ごと優しく包まれた。 「でも誓って男女の仲じゃなかった。この前飲んだ時、紅林さんは当時俺に気持ちがあったと言ってくれたけど、それももう過去の話。今の彼女には部長がいる」 「でも、それでも天野さんは紅林さんを……」 電話で話しているのをハッキリと聞いた。 好きだって、泣かさないって、そう想いを告げているのをこの耳でしっかりと聞いたのだ。 「あれは、お前の話をしてたんだよ」 「……私?」 「紅林さんから部長について行くために仕事を辞めるって報告があって」 「ええ⁉」 「……今そこはいい。それで自分の話を終えたら今度はお前の心配してた」 「なんで、私の……?」 「給湯室で色々あったろ」 そう言われて納得する。 私が美山さんたちに中傷されている現場に居合わせたせいで、紅林さんまで悪く言われてしまったのを思い出した。 それなのに、関西に戻り仕事を辞める決断をしてもなお私のことを気にかけてくれる紅林さんを思うと、嬉しい反面そんな素敵な人に敵わないと嫉妬する自分の醜さに嫌気が差す。 自己嫌悪に沈む私に告げられたのは、思ってもみない事実だった。 「お前が前より笑うことが増えてさらに可愛くなったから。そのうち他の男に持っていかれるぞって発破かけてきたんだよ、あの人」 「え?」 「素直になれって、好きなんでしょって聞くから好きだって答えた」 「で、でも不倫、とか」 「あー。あれはお前が……」 少し言い辛そうにする翔さんに不安になって縋るような眼差しを向ける。 「なんですか?」 「お前があのバーテンと仲良さそうだったから、相手が既婚者だってうかうかしてらんないぞっていう紅林さんの最低なジョーク」 「え、まさか不倫って、私と……光ちゃん?」 有り得ない。何があっても有り得ない事態にふるふると首を横に振る。 そこでふと、翔さんの電話での言葉を思い出した。 『不倫なんかさせるか。美樹がどんだけ泣いたか知ったっつーのに。俺は絶対泣かさない』 じゃああれは、紅林さんに向けた言葉じゃなくて。 あの『すきだよ』というセリフも、全部、私に………? 「そうやって親しげに阿久津さんを呼んでるのを聞いて、“天野さん”に戻った俺がどれだけ妬いて苛ついてるか察してくれる?」 「そ、んな。だって、なにも……」 「言葉にしてハッキリさせるのは、お前の気持ちがちゃんと俺に向いて整うのを待ってたから。他の男に持ってかれるなんてごめんだから、ちゃんと態度では示してたつもりだった」 ソファに座ったまま身体を引き寄せられ、耳元で「伝わってない?」と囁かれる。 その低く甘い声に首筋から背中、腰に向かって痺れが走り、小さな吐息が漏れてしまった。 それに気付いた翔さんがクスッと笑った気配に、恥ずかしくてなんとか腕の中から脱しようと試みるも、さらに強い力で閉じ込められてしまう。
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