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11.ずっとあなたの側で
私は今、ハサミを手にクローゼットの前に立っている。
翔さんと気持ちが通じて一ヶ月。ふたりでランチに出たり、週末の休みは一緒に過ごすことに少し慣れてきた時にその爆弾は落とされた。
「どうしよう。着て、行くべきだよね……」
目の前には以前デートで買ってもらった薄いパープルのニットワンピース。
未だにタグも切らずにいたのをようやくクローゼットの奥から引っ張り出してきた。
土曜の午前十時前。朝からもう三十分もこうして悩んでいるのにはわけがある。
来週の月曜日に情報解禁となり、カランドコーポレーションから新スタイルの店舗『calanbar』が三月にオープンすると年明けには各媒体で大々的に宣伝される。
そのためしばらくは休日も返上で忙しくなると予想される翔さんは、例の“覚悟”を私に強いてきた。
それは何度目かのデートで夕食をご馳走になったときのこと。いつも通り翔さんが会計をして店を出た。
『いつもすみません』
『だから、謝らずにありがとうだけ言っとけって』
このやりとりも何度しただろう。翔さんといて私は財布を出したことがない。慣れずに食い下がる私の髪をくしゃくしゃに撫で回した。
『もう。ありがとうございます』
『可愛くねぇ顔だな』
『生まれつきです。だって毎回毎回』
『ははっ! そこそこ稼いでるって言ったろ? 年だっていくつ違うと思ってんだ』
よくわからないけど最後には不貞腐れた顔をした翔さん。
それでもあまり納得できなくて返事をしないでいると、目の前の男はニヤッといやらしい笑い方をした。
『じゃあいい加減そろそろ着てこいよ』
さすがに何のことだろうととは思わなかった。ずっと袖を通さずにいるワンピースの話だとすぐに理解した。
『……自分から言います? 私の覚悟が出来たらって言ってませんでした?』
『待たせるあすかが悪い。お前待ってたらいつまで経ってもタンスの肥やしだろ』
『奢ってもらうのとソレを引き換えにするのってなんか』
『バカ、真剣に取るなよ。口実だろ』
そんな会話をしたのが先週。それでもその週末は覚悟が出来ずにワンピースを着ることはなかった。
土曜日も日曜日も車で連れ出してくれたけど、結局あのワンピース姿じゃなかった私を見て、翔さんがどう思ったのかはわからない。
あんなことを言っておきながら一応ちゃんと大人な翔さんはがっかりした顔を見せることもない。それにどこかホッとしつつ、申し訳ないとは思っている。
もうあと一時間もしないで翔さんはここに迎えに来てしまう。
私は意を決して手に持ったハサミで小さなタグを切ると、ずっしりと重たく感じるワンピースに袖を通した。
「お待たせしました」
いつも通りマンション前で待っているシルバーの車の助手席に乗り込む。
十二月中旬、雪こそ降っていないがかなり寒い。車の中の暖かさにほっとしつつ、いつものようにコートの前ボタンを外そうとして慌ててその手を止めた。
「昼飯、リクエストある?」
「えっと、翔さんは?」
「あすかに聞いてんの」
意地悪で横柄だと思っていた翔さんだけど、こうして小さいことでも私の意見を聞いてくれる。
初対面の時からは考えられない優しさを発揮されて、いつまで経ってもドキドキして二人きりの空間に慣れない。
「温かいスープパスタが食べたい、です」
「ん、了解」
ちらりと私に視線を走らせながら車を発進させた翔さんは、オフホワイトのシャツに紺のニット、ボトムは黒のスキニーパンツを合わせていて今日もオシャレ。ライトグレーのステンカラーコートと差し色の赤チェックのマフラーが後部座席に放られている。
私はいつものショート丈のダッフルコートではなく、襟元に大きなファーのついたロングコートを着てきた。
前をしっかりしめてベルトを締めるドレスタイプのコートは、中に何を着ているのかは一見してわからないはず。
車内は暖かくてコートを脱いでもいいんだけど、中に着込んだワンピースを見られるのが恥ずかしくてたまらない。
連れられて来たのは巨大な複合施設『Le favori TOKYO(ルファヴォリ東京)』。
高層オフィスビルやホテル、病院、映画館やボーリング場などのアミューズメント施設も集まっていて、ショッピングモールも併設されている。
案内されたイタリアンレストランは四十六階。窓から見える景色は都心とは思えないほど緑も多く、行き交う電車や車はおもちゃのように小さく感じる。きっと日が落ちた後は夜景が綺麗に違いない。
翔さんがコートとマフラーをクロークに預けているのを見て、私もためらいがちにコートのボタンに手をかける。
もたもたしているのを鞄が邪魔だと思ったのか「慌てなくていいから」と笑いながら持ってくれた。
ロングコートを脱ぎクロークに預けると、横から翔さんの視線が刺さって身の置きどころがないほど恥ずかしい。
別のスタッフが「お席にご案内します」と声を掛けてくれたのをきっかけにやっと翔さんの熱い眼差しから解放されたと思ったのも束の間、席につきメニューを置いたスタッフが去った後もじっと無言で私を見つめてくる。
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