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――さあ、手を出して
お母さんが幼い娘に優しく話しかける。その手に握らせたのは鳥の形をした小さな石膏の置物。
――これは今日からあなたのもの。あなたがしっかり見はっていなさい。鳥がどこかへ飛んでいってしまわないように。
常に肌身離さず持っていること。
約束の指きりをして、その晩幼い娘が眠っているうちにお母さんは吹雪の夜闇の中へと吸い込まれていった。
あくる朝、雪白の石膏の鳥を握りしめてベッドに丸くなっていた娘はむくりと身を起こした。
身体の奥深いところから何かが抜け落ちたような感じがした。
何かがなくなっている。
見た夢を思い出せないような奇妙な不安は娘の心を苦しめた。けれど、何を失くしたのかもう知っていた。
娘は白い息をはきながら居間に下りていった。すでにおばあがいて、朝のお茶をすすっているところだった。暖炉の火がパチパチ燃えている。
――おばあー
娘は自然と流れ出た涙をぬぐいもせずおばあの腕の中へ飛び込んでいった。おばあは何でも知っているかのように落ち着いていた。コップをことりとテーブルに置いてすぐに幼い孫を抱きとめてくれた。
――おばあーーおかあさんがいない。
言葉にすると真実になる。娘の心の中で「それ」が現実になった。夢の中で石膏の鳥が教えてくれた。チリチリ鳴いて娘に話しかけていた。
――おかあさんは遠い所へ旅に出たのだよ。
――どこへ? どこへ?? 私も行ける?
――おまえの鳥を手放したら、行けるようになるよ。今は鳥をもらったばかりだから、まだ、だめ。その時が来るまでちゃんと鳥を護ってやりな。ポケットにしまってあるね?
――うん。
娘は分厚い寝間着のポケットから石膏の鳥を引っ張り出した。途中でくちばしがつっかかって苦労したが、加減を知らない娘は力強く引っ張った。おばあが目を見開いたが、石膏は丈夫に作られており、うんともすんとも言わなかった。
――ほら、見て。真っ白。
――うん、うん。きれいな鳥だねえ。おかあさんの鳥は澄んだ空色だった。おまえの鳥はどんな色になるのかねえ。
――……さくら色がいい。
――おう、それは良い。
娘の家の庭には桜の木が一本植わっている。何十年もかけて成長したたくましい桜だ。春の色、この娘にぴったりだろうとおばあはうなずいた。
――鳥の色が変わるの?作り物なのに?
――それはおまえの魂の色。どんなものにでも変身できる。おまえしだいなのさ。
――ふうん?
娘は石膏の鳥を手に持ってくるくる回しながら眺めてみる。鳥の体は卵の殻のようにすべすべしていた。頬ずりしたくなるような。
――あのねえ。夢の中で鳥とおしゃべりしたよ。
――言葉がわかるのかい。
――なんとなく。ぽわーって鳥が光ってるの。遠くへ飛んでいっちゃうから、私追いかけたんだよ。そしたら壁があるの。
――どんな、
――見えない壁なの。透明な壁なの。私と鳥はそこで行き止まりになって、目が覚めたの。
――ははあ、
――あれはなんの壁?
――たぶん、おまえの心の世界の端っこなんだろうよ。そこから先へ行ってはいけないよ。
――行けないよお。手で叩いても思いきりぶつかってもこわれなかったもん。
おばあは孫娘のふさふさの髪を優しくなでてやりながら、小さな石膏の鳥をじっと見つめていた。
小さな娘を出し抜いて、この鳥はいつか暴れ出すかもしれない。
――さあ、朝ごはんにしよう。顔を洗っておいで。
おばあはいったん孫を居間からしりぞけた。暖炉の火がパチパチ燃えている。窓の外は真っ白で、おかあさんを捜しに行くことは難しいだろうと思った。白い世界にとけていったら、人の形を保てない。
もぞもぞ……
しわしわの手でおばあは上着の裏を探った。萌黄色の石膏の欠片があった。それはただの硬い石ころだ。粉々の。
おばあは自分の宝をじっと見つめていた。
娘は泣いたあとにもかかわらず、ぴかぴかの顔をしていた。白い石膏の鳥に頬を寄せる。すべすべだ。耳をすませばチリチリと鳴き声が聴こえてきそうだった。
雪はやんでいる。外に出てみよう。雪と鳥と、どっちが白いか比べてみよう。
てのひらにくるまれた鳥に娘の体温が伝わったのか、ほのかにあたたかくなった。
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