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*9 変わっていく良いこと悪いこと
鍵を預けてから、一度僕が依頼した留守の昼間に惣菜を作りに来てくれたらしく、出来立ての惣菜が補充されていたのが一昨日だ。
そして今日は掃除もしてもらう日で、密はいつになく張り切っているように見える。
「じゃあ、今日は一緒にリビングやっていこうか」
うっす! という威勢のいい返事をする密の顔はいままでになく真剣だ。
掃除をしながら教えていく形になるので手には雑巾とフローリング用スプレーを握っているが、彼の内心としてはメモを逐一取っていきたいのかもしれない。食い入るように僕の手許を見つめている姿からもどれほど密が掃除に関して苦戦しているのかがわかる。
「よく絞った雑巾で水拭きをするんだけど、その水の中にフローリング用のスプレー材を十回ほど吹きかけておいて混ぜておく。あと、水って言うけどぬるま湯が良いかな」
「ぬるま湯……手が冷たくないからっすか?」
「まあ、冬場はそれもあるけど……一番はさっき混ぜた洗剤が良く溶け込むようにするため」
一言一言にうなずきつつ、まるで心のメモ帳にでも刻み込むように密は真剣に聞いては実行していく。
研修で習ったんじゃないの? とは始める前に訊いたのだけれど、「薫さんのおうちのことは薫さんに聞くのが一番なんで!」と当然のように言うのでこうしてまた僕が何故か教える羽目になった。
フローリング用洗剤入りのぬるま湯に浸して搾った雑巾でリビングの床を丁寧に拭いていく。もちろん床を拭く前にはハンディーモップで棚やテレビモニターの裏表を丁寧に掃除して埃を落としてある。
掃除は上から下へ、水で拭いたらから拭きもする。密は上背があるのでついでに壁にも拭いてもらうことにした。
時間としては平日の夜の二十時過ぎ。部屋の証明で照らし出される埃をすべて掃除してしまうのは難しいかもしれないけれど、二人がかりでやるとフォローもできるのでそんなに困ることはない。
それに、掃除が苦手とは言え密はプロなので、一度教えればすぐに吸収して実践することができた。
(なにより、やっぱり思っていたより真面目なんだよな、密って)
懸命にリビングとキッチンの境にある壁を拭いている密の背中を見ながら、僕はそう思うのだった。
「薫さん、壁、拭き終わりました!」
「ああ、ありがと」
「次、何しましょう?」
二人でやったお陰で時間にして一時間弱で今日の掃除が終わってしまった。今日の予定ではあとは作り置き惣菜を作ってもらうことになっているけれど、ほんの少しだけいつもよりスケジュールが早く進んでいる。
だから「じゃあ、ちょっと休憩しなよ」と勧めると、密は大きく首を横に振った。
「いやいや、まだ勤務中なんで! 大丈夫っす。薫さんは、どうぞゆっくりされてください」
僕は依頼主なので言われなくてもゆっくりとするけれど、ついさっきまで一緒に掃除をしていた相手が休まずに新たに他の仕事をし続ける姿を眺めているのはなんとなく気が引ける。
とは言え、密の言い分も一理あるので、僕はちょっとだけ考えてこう提案してみた。
「それなら、コーヒーを二人分淹れてくれる?」
「ええ、いいですけど……二人分ですか?」
「そ。二人分。僕の分と、密の分」
「え、俺の分?」
「一緒にコーヒーを飲む、も依頼の一つってことにしたらどうかな?」
密は僕の提案にきょとんとしている。流石に強引すぎたかな……と前言を撤回するか一瞬迷っていると、密は嬉しそうにうなずいて「ありがとうございます!」と笑った。
「じゃあ、すっげぇ美味いコーヒー淹れますね!」
そう言って急いで掃除道具を片付けに向かい、やがていそいそと密は電気ポットにミネラルウォーターを注ぎ、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
冷蔵庫の中に取り寄せをして届いたチョコレートがあったのでそれも出して密に勧めると、密は箱の中の一つをそっと手に取って口に入れた。
「うっま! なんすかこれ! 溶けてなくなった!」
「ここの美味しいんだよ。苦すぎなくてミルクが濃厚で。コーヒーに合うでしょ?」
「たしかに……ッはー、めっちゃ美味いっす」
自分以外にコーヒーを淹れてもらって一緒に呑む初めてだったかもしれないことに、チョコレートとコーヒーを味わいながら子どものように微笑んでいる密を見ながら気づいた。よくウチに来ている風磨にさえも、ミネラルウォーターを寝室にある保冷庫のものを勧める程度なのに。
その風磨をもう何週間も家に招いていないことにも気付いた。誘いはかかるのだけれど、何のかんのと言い訳をして大学で会う以外に会っていない気がする。少し前なら三日とあけずに連絡が来てセックスしていたことだってあるのに。
「はぁ、美味かったぁ……ありがとうございます、薫さん」
「ああ、うん。たまにはいいでしょ?」
「会社には内緒で」
口元に人差し指を宛がって肩目をつぶる密の仕草に僕は吹き出してしまい、苦笑しながらうなずいた。大丈夫、誰にも言わないよ、と言って。
他愛ないそんな約束に密はすごく安堵したように頬を緩ませ、そして空になったカップとチョコレートの包み紙なんかを片付けに立ち上がる。
「めっちゃ美味しかったんで、今日はお礼に薫さんの好きなおかず作りますね」
そう言いながら冷蔵庫などを開けて料理の準備を始める密の後ろ姿を、僕は微笑ましい気持ちとほんの少し甘さを感じる気持ちをいり混ぜながら見つめていた。
それはいままでに覚えたどんな感情よりも穏やかで甘くて、まるで彼がまとうにおいのようだった。
毎週火曜日のハウスキーピングが掃除講習も兼ねるようになって半月ほど経ったある日、午後の講義終わりに風磨からメッセージアプリに連絡が入った。いまから遊ばないかという内容だったが、その真相はわかりきっている。
『悪い、用事があるから今日は無理』
それだけを返信して夏物の服でも見に行こうかなと考えながら講義室を出て歩いていると、またメッセージが入った。
『用事って何? 俺と会うより大事?』
僕と風磨に付き合っているとかそういった感情を持ち合わせた関係とかはないはずだ。金銭のやり取りこそあるけれど、風磨に僕の行動を逐一報告しなきゃいけない義理はない。
それでなくとも、なんとなく最近の彼の言動が僕には気に障って仕方ない。所謂恋人関係にさえないのに、所有権を主張するような彼の言動が鬱陶しく思える。
風磨は僕の秘密を知ってはいるから、それを盾に僕をゆすってくるようなことを言いはするけれど、そのほとんどは本気ではないのはわかりきっている。良くも悪くも“友達”の範囲を出ない悪ふざけの一環だと思っていた。
でも、そうだと楽観していていいようにも、思えなくなってきてもいるのも事実だ。
とは言え、ここで無下に突き放すと余計に火に油を注いでしまうので、当たり障りのない言い訳を僕は考える。
『ごめん、どうしてもキャンセルできない予定だから』
謝りつつも、前のように次の約束をしないようになっていることに僕はメッセージを返し終わってから気づいた。無意識の内に、僕は風磨から離れようとしているんだろうか?
(まあ、あんな奴だから四六時中一緒にいようとは思えないんだよな、ウザいし……)
でも、それだけじゃない理由もある気がする。僕が直視しようとしてないだけで、思考の奥底にへばりついているんじゃないだろうか。陰に隠れて認識できないと言い訳して、視界に入れないようにしているのかもしれない。
だけどなんでいまさらそんな風に……まるで嫌悪するように思うようになっているんだろう。弱みを握られているとは言え、セックスまでしてきたのに。
考えつつもわからないままにしておいた方がいいだろうかとも思い始めた時、再びポケットのスマホが震える。
取り出してメッセージを表示すると、ただ一言こう返されていた。
『あ、そ。 薫もずいぶん付き合い悪くなったんだな 友達なのに』
“友達”なのに……その言葉が、僕の中に鉛のように沈み込んでくる。重たく苦く、気分を濁していく。
濁った気分の中に、ふと、密との約束の言葉がちらつく。もうやたらに友達じゃないやつに奢ったりしない、というものだ。
(この前は守れなかったけれど、もう約束を破ったりはしない)
そう思い返すと、自分が先程とった行動が間違っていないような気がして気分がゆったりと晴れていくのを感じる。すると途端に呼吸が少し楽になって、僕はひとつ深呼吸をする。
見上げた梅雨入り前の青空はカラッと晴れ渡っていて、まるで僕のいまの心境を映し出しているみたいだった。
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