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*10 “友達”と友達
「薫ぅ、今日遊びに行っていい?」
梅雨入り間近なあるゼミ終わりの日、帰り支度をしていた僕を背後から抱き着きながら風磨が絡んできた。その瞬間、あの安っぽいにおいが鼻をつく。
(やっぱりこいつの印象は良くなることはないな……)
湿度と天候も相まって苛立たちをもろに顔に出して振り返ったのに、彼は気付いていないのか何なのか構わず僕を放す様子はない。
ゼミの後たいてい僕は講義がないし、バイトもしていないので風磨が来ても困る事はないのだけれど、彼がウチに来ると言うことはただ単純に遊ぶというわけではないのが透けて見えている。
「最近マジで付き合い悪くない? 勉強でもしてんの?」
最後に風磨と寝たのは確か密に初めて会った日だったと思う。それ以来飲み会に顔は出したけれど、そのあとになし崩し的にいつも僕の部屋に来ていたのを最近なんとなく避けていのもあって、あの日以来風磨はウチに来ていない。
意図して彼を避けていたつもりはなかったけれど、僕から連絡をしてまで会おうとは思わなかったことが大きいのかもしれない。いままでもどちらかと言うと風磨の方から積極的に連絡をしてきていたから、気付いていなかったのだろう。
「……べつに。ちょっとバタバタしてて」
「バタバタ? 薫はバイトもしてないのになんか予定詰まってたりすんの?」
「僕にだって予定はあるよ」
「映画観たりとか?」
意識高い系? いつからそんなキャラになったんだよ? と、嘲笑う風磨の言葉を聞き流し、僕はゼミ室を出て行く。
スマホを取り出して画面を見ると、ウッディハウスキーピングから連絡が入っている。依頼日時の確認のメッセージだ。今日は火曜日で、予定通りならば密が二十一時過ぎに僕の部屋に来ることになっている。
「なんだよ、俺以外にも誰か相手がいるワケ?」
廊下を歩いてエレベーターが来るのを待ちながらメッセージを確認していたら、いつの間にか風磨が真横に立って僕の手許を覗き込んでいる。
不躾な態度にムッとしてスマホを反らすと、風磨は面白くなさそうな顔をして僕を見る。見下すような白い目に僕は苛立ちを覚えた。
「それ、あのハウスキーパーだろ?」
「……だったら何? ヒトのスマホ勝手に見ないでよ」
「見られて困るような事でもしてんのかよ。“夜のお掃除”とか」
あまりに下世話で下品な発想に腹が立った僕は、それに応えることなくちょうど降りてきて扉が開いたエレベーターに乗り込む。風磨も当然のようについてくる。
「図星かよ」
「見当違い過ぎて答えたくないだけ」
「……ふーん」
苛立っているのを隠さずにつんけん答える僕の態度が気に食わないらしく、風磨はなおもおもしろくないと言いたげに僕を見ている。その視線が鬱陶しい。
何か言いたげに視線を向け続けてくるのに振り向きもしないままエレベーターは一階まで降りていく。他の学生もいるせいか、風磨が見てくるだけで何も言わないのが幸いだった。
やがて一階に着いた時、扉が開いた先に友達らしき誰かと喋っている密が立っていた。密は僕を見つけると嬉しそうに微笑み、軽く手を振ってくる。
「薫さん、お疲れっす。今夜よろしくお願いしますね」
密としては仕事の確認と他愛ないあいさつ代わりだったのかもしれない。でもその言い方はいまの風磨には誤解を与えかねないものだった。
「なんだよ、やっぱそういう関係なんじゃん。俺以外にも相手がいるんじゃんか」
「そうじゃない。密は、そういうのじゃ……」
エレベーターを降りたってすぐに立ち止まって言い合いじみた感じになった僕と風磨を、他の学生たちがじろじろと見ていく。ほとんどが通り過ぎていく中、密だけが心配そうにこっちを見ている。
「密ー、先行くぞ?」
密と一緒にいた誰かが彼を呼んでも、彼は去っていこうとはしない。密は声をかけてきた相手の方を振り返ってうなずくような手を振るような素振りをしてまた僕らの方を見た。
何だよ、早くどっか行けよ……そう念じるように視線を向けていたら、突然強く肩を引かれた。
「お前さぁ、自分の立場わかってんのか? いっそここで叫んだっていいんだからな」
冗談やハッタリにしても性質が悪すぎる言葉に、僕は密に向けていた視線を風磨に向ける。風磨は僕を見下すように薄く笑って見つめている。
彼は、僕の公にされたくないこと――ゲイであることを、学生が多く行きかうこの場で本気で声に出すつもりなんだろうか。出来るわけがない、と高をくくるにはあまりに僕は彼に弱みを握られすぎている。だって僕は、彼に金を渡してまで口止めをしつつ抱かれているのだから。
僕の顔はきっと蒼ざめていたかもしれない。どう切り返せば風磨が僕に秘密を口にしないかを瞬時に頭を巡らせたけれど、上手く言葉が浮かんでこない。
それでも構うことなく風磨の口が開きかけたその時だった。
「――ちょっとあんたさ、さっきから何、薫さんにいちゃもんつけてるんだよ。その手を放せよ」
流石にもう僕らから視線を外してエレベーターに乗ったものとばかり思っていた密が、僕の肩をつかんでいた風磨の手首を握っていた。
思わず顔をあげると、密はいつもの人懐っこい笑みなんて浮かべておらず、音がしそうな鋭い目で風磨をにらんでいる。二人の間に緊張が走る。「え? 何? ケンカ?」という囁き声が聞こえ始めるほど二人は睨み合っていた。
周囲のざわめきと視線が僕らに集まり出した頃、風磨が忌々しそうに密の手を払いのけた。
「っせぇな。お前関係ねえだろ。うっぜぇな」
「関係あるんだよ。薫さんは大事な友達だから」
友達、という言葉に僕は胸の奥がずきりと痛んだ。折角密が身体を張って風磨のいやな言葉から守ってくれたのに、それを素直に喜べない。
僕は友達らしい友達がいたことがない。いるのは風磨のような僕の金とかを目当てにした取り巻きだけ。
だから、密の言葉は嬉しかったはずなのに――なんで胸がこんなに痛くて苦しいんだろう。
密の言葉に風磨は鼻先で嗤い、バカにするような口調でこう言い返してきた。
「友達? お前みたいな金もらうために人ンちの世話するようなことしてる奴がか? お前と薫の間にあるのは友達関係じゃねえよ。主従関係って言うんだよ」
「それはあの部屋にいる時であって、いまここでは俺と薫さんは友達だ! 金は関係ない!」
きっぱりと言い放った密に、風磨は不機嫌に顔を歪めて舌打ちをし、そして一人ゼミ棟を出て行った。
どうにか僕の秘密は守られたけれど、それが密と友達であることによるものなんだと思うと、何故かやっぱり素直に喜ぶ気持ちになれない自分がいる。
「薫さん、ごめん」
「……え?」
風磨の姿が見えなくなって、僕らを取り囲んでいた野次馬の学生たちも解散し始めた時、密がぽつりと申し訳なさそうに呟いた。
さっきの出来事は少なくとも密に非はないのになんで謝ってくるんだろうと密を見つめていると、振り返った密はこう言ったのだ。
「ごめん、俺勝手に薫さんのこと友達だって言っちゃって……バイト先のお客さんなのに……」
そう言われればそうなのだけれど、いまは勤務時間ではないから、先ほど彼が言い放ったように関係はないはずだ。
正直僕の胸はまだ友達と言われたことに胸が痛かったけれど、その痛みはあえて無視して無理矢理に微笑んでみせた。
「そんなこといいよ。さっきはありがとう。すごい助かった」
僕がぎこちなく笑っているのに気付いているのかいないのかわからないけれど、とりあえず密はまたいつものように懐っこい顔で笑ってうなずいてくれた。
「薫さんが無事なら良かった。薫さん綺麗で弱そうに見えちゃうからすげぇ心配になる」
「そんなことないよ」
「でも、いつでも俺で良ければ呼んでよ。友達なんだからさ」
思い掛けない言葉に呆然としていたところで講義が始まるチャイムが鳴り響く。
「あ、やべ。ゼミ始まっちゃう」
「ああ、ごめん」
「じゃ、また後で」
さっきまでの不愉快な出来事なんてなかったかのように密は笑って僕に手を振って、会談でゼミの行われるフロアを目指して駆けあがっていった。
その姿が見えなくなってしまうまで、僕はじっと目で追っていた。
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