*12 雨の日の濡れた偶然

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*12 雨の日の濡れた偶然

 それから数日後に梅雨に入り、ここ数日雨ばかりが続いている。  風磨と密が衝突した日の翌週はゼミが休講だったので、風磨に会うことはなく、他の講義も見かけはするものの離れた席に座ったりしていたので特に接触はない。連絡も珍しく取ってこないので、僕は気ままにキャンパスライフを送ることができている。  そうしてまた、火曜日が巡って来た。 「遅いな、密……」  毎週火曜日の二十時か二十一時、もしくはもう少し遅い時間帯に密はウチにハウスキーパーとしてやって来ることになっている。  依頼している時間は密の前の依頼先や掛け持ちしているほかのバイトの時間との兼ね合いでまちまちではあるのだけれど、指定した時間には遅れたことはなかった。  今日の依頼は二十時のはずなんだけれど、五分を過ぎてもインターホンが鳴らない。 「前がつかえてたりするのかな……もう少し待って、来なかったら会社に電話してみようかな」  これまでの勤務態度からして理由もなく来ない、ということは密に限ってないはず……とは思っているのだけれど、直接彼と連絡の取りようがないので何とも言えない。  窓の外を見ると結構強い雨が降っているようで、外の景色が滲んで見える。ひんやりとする窓ガラスに触れながら眺める夜景は泣いているように見えた。  濡れる夜景を眺めながら、僕は一つのことを考えては溜め息をつく。ちょっと緊張を伴うことをしようとしているからだ。  先日、ダイナーの店長からアドバイスされたことを参考に、密との約束を守れなかったことを告げようかと思っているのだ。 (密は僕が約束を破ったことに怒ることはない、って店長は言ってたけど……だからって自分のやってしまった良くないことを自分から話すのって緊張するな……)  後ろめたいことがあるとろくなことがない、そう言っていた店長の言葉に僕はうつむく。  僕は、僕がゲイであることを後ろめたいと思ってしまっている。そうじゃないって言ってくれる人も世の中に入るみたいなんだけれど、少なくとも僕の周りにはそんな人はいない。両親が僕を家から追い出して絶縁状態なのがいい例だ。  だから、それを隠して大学生活を送っていこうと思いながらスタートした去年の春、僕は風磨にそれを知られてしまったのだ。  風磨とは教養科目のクラスが同じで、たまたま初日のガイダンスの時に席が隣だったのがきっかけだ。  彼は人当たりが良くて、よく言えば盛り上げるのが上手いから、すぐに周りを巻き込んで小さなグループのようなものを作ってその中心にいた。初めて親の影響に関係なく話しかけてきてくれたのが風磨だと思っていたので、彼を初めての友達だと思っていた。  でもそれは、あの夜に違うことがわかってしまったんだ。  そのグループの中の誰かが知り合いの先輩が開く新歓コンパに行こうと言い出して、僕もなんとなくそれに出席したのだ。 「薫ー? 大丈夫かー?」  最近のコンパでは酒は出ないと聞いていたのに、その時のコンパではごく当たり前にみんなに酒が配られ、飲まされた。知らなかったけれど僕は全く飲めない性質(たち)だったらしく、数杯飲まされた後記憶がなくなってしまったのだ。  おそらく二次会か三次会のカラオケに行った際にトイレにこもったまま出てこない僕を、風磨が捜しに来てくれた。 「んー……」  トイレの個室からどうにか出てきた僕はよろけてしまい、そのまま風磨に抱き着く形になった。そこまでは、まあよくあることなんだと思う。  違ったのは、その先の行動だった。  酔っていて思考回路がまともじゃなかったんだと思う。でもそれは言い訳にはならないのはいまならわかっている。  わかっているけれど――あの時の僕の理性から乖離(かいり)した衝動で取った行動の動機が、ただの酔いから来ているのかまではわからない。  抱き着いた風磨との距離はなく、数センチのインターバルを持って見つめ合って――やがてどちらからか忘れたけれど、気づけば僕と風磨は舌を絡ませ合うようなキスをしていた。  酔った勢い、間違い、それだけならばよくある事なんだろう。でも僕らはそうじゃなかった。  僕は酔っていてその後なにをどうしたのかわからない。気がつけば自分の部屋の寝室にいて、隣には同じように裸の男――風磨が眠っていたのだ。 「え……なに、これ……」  慌てて起き上がって自分の身体を見てみると、無数のキスマークに白濁の後が散っている。なにが起こったのかは一目瞭然だ。  マッチングアプリで色々な男と寝てはきたけれど、まさかこんな身近な、友達と思っていた相手と関係を持つなんて思っていなかった僕はパニックになった。 「風磨、ごめん! 僕、とんでもないことを……」  目覚めた風磨に僕は必死に謝り倒したんだけれど、彼は怒らなかった。だけど嫣然とした笑みでこう持ち掛けてきた。 「まさか薫から迫ってくるなんて思ってもなかったなー。昨夜の(さか)ってるメス猫みたいに声上げて俺の下で啼いてる動画あるけど、どうする?」  スマホをちらつかせながらそう言われて、蒼ざめた僕はなんでもするから誰にも言わないでくれと懇願してしまったのだ。それが、すべての始まりだったと言える。  あの春の夜をきっかけに、僕は風磨と金銭のやり取りで身体の関係を持たざるを得なくなってしまった。  いつの間にか風磨は僕の家の経済事情も知っていて、あの春の夜の動画をばら撒いてやろうか? なんて言って体だけでなく金銭も要求するようになってきたのだ。そういう関係が、もう一年半くらい続いている。  だから余計に、僕はゲイであることを後ろめたく思っているし、風磨から都合のいい“友達”呼ばわりされても否定しきれないでいる。  だからこの前ダイナーの店長に僕と密が友達なんだからと言われて、ああ、そう見えているんだと思うと嬉しくもあったけれど……でも何かがしっくりと来ていなかった。 (それはきっと、僕が密との約束を破って後ろめたいからだよね……)  そう、考えてはいるものの、心のどこかではそれもまた違うような気がしてもいた。だからと言って、理由が何なのかはわからないのだけれど。  雨の降る窓とそこから濡れたネオンを眺めていたら、ようやく密が到着した。 「すんません。前のおうちで延長に時間頼まれちゃって……しかもすぐそこでバイク止まっちゃって……走ってきたんすけど、濡れちゃいました」  エントランスからのインターホンの画面越しでは気付かなかったのだけれど、密は全身が汗と雨で濡れていた。後ろに結い上げた髪の先からも前髪からも水が滴り、作業着のシャツが汗でぴったりと肌にくっついて体の線を強調している。  そして何より――いつになく濃く感じられる、あの甘いにおいが。  密は自覚がないのか、濡れた頭を拭いながら申し訳なさそうに今日の依頼内容を確認している。 「――ってことでいいっすかね?」 「え? あ、ああ」 「すんません、俺ちょっと外で着替えを――」 「……あのさ、」 「はい?」 「風呂、入ったら?」  自分でも何言っているんだろう、というような言葉が口をついて出ていて、密はもとより僕までびっくりして顔を見合わせていた。雫が、ひとつふたつ滴っていく。 「え……いい、んすか?」 「や、ほら、濡れてるしさ、着替えと風呂掃除のついでにシャワーとかどうかなーって思っ……」  言えば言うほどぎこちなくなってしまうので、ごまかすように顔をあげたら密もまたぎこちなく笑っている。 「……じゃあ、お言葉に甘えて」  気まずさの拭えないまま密がうなずき、僕が浴室へと案内していく。  湯上りのバスタオルを出したので、「じゃあ、ここにタオル置いておくよ」とドアを少しだけ開けて声をかけがてら浴室を覗き込んだら、不意に無防備に陽によく焼けたたくましい密の肌が目に飛び込んできた。肌には汗と雨の混じったものがまとわりついていて、ライトを受けて光ってさえ見える。  綺麗な肌だ――そう、見惚れてすらいたその時、少し熱めのお湯が降り注いできた。 「ぅわぁ!」 「ああ、すんません! 薫さん、大丈夫っすか?!」  手が滑っちゃって……と言いながら密がお湯の大量に吹き出すシャワーヘッドを慌てて下に向ける。どうやら湯量を間違えてシャワーが暴れ出したようだ。そこに僕が覗き込んでしまって、真正面から浴びてしまったわけだ。  僕もまたびしょ濡れになってしまい、薄い生地のルームウェアはぴったりと僕の体に張り付いている。  呆然と顔をあげて密を見ると、濡れた肌からあの熟れた果物のにおいがいつになく強く漂ってくる。甘く濃く、彼の体温すら感じるにおい。  ――このにおいに包まれるほど抱かれたい。 無意識に僕はそんなことを考えてしまっていた。その無意識の欲望が、一か所に集中していく。 「あッ……」  ぼんやりと見つめ合っていると思ったら、不意に密の視線が僕の体のラインをなぞるように降りていき、やがて小さな声をあげて耳の端まで赤く染まって顔を背けた。  密が何を見てそうなったか僕にもすぐにわかって、僕もまた全身が赤くなっていく。 自分でも気づかないくらい、本能的に彼のにおいに反応していたのだ。その証が、無様にも曝されている。  僕は慌てて存在を誇示し始めたそこを抑えるも、なんて言えばいいかわからずうつむくしかない。  ここを出なきゃ……一刻も早くこのにおいから離れなきゃ……そう、思っているのに、身体が動かない。  消えてしまいたい恥ずかしさに身を苛まれながら、僕はどうしたらいいのか途方に暮れる。
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