*14 傷ついたのは、傷つけたのはどっちなのか

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*14 傷ついたのは、傷つけたのはどっちなのか

「なんで、って聞いてもいいっすか?」  濡れて汚れた身体を脱衣所に放り出したままだったバスタオルで拭いていたら、後ろから訊かれた。  顔をあげると痛みをこらえるような泣き出しそうな顔をして密が鏡越しに僕を見ている。  振り返ることなくいまにも崩れそうな密を見ながら、僕は出来るだけ感情を抑えて答えた。 「僕は、密が思っているほどいいやつじゃないよ」 「そんなことないっすよ!」  密は濡れた身体のまま一歩こちらに踏み込んで来ようとしたけれど、僕が視線を向けると踏み止まった。  視線で食い止めるように見つめる僕に、密はまだ何か言いたげに口を開きかけている。それをさせないために、僕は言葉を続ける。 「じゃあ訊くけど、密は僕の何を知っててそう思うの?」 「それは……薫さんは、カッコ良くて、頭が良くて……」  聞き飽きた言葉が出てきたので、僕は思わず鼻先で嗤ってしまった。なんだ、やっぱり密だって僕のことを好きだなんだと言っても、他の奴らと変わらない目でしか見ていないんじゃないか、と。  だから僕は肩にバスタオルだけをかけた姿のまま密の方を振り返り、あえてゆったりと余裕を見せるように笑いかけた。密は心なしか怯えたような表情をしている。 「みんなそう言うんだよね……やっぱりそうとしか見えないんだ」 「いや、えっと……」  第一印象は変わらない、揺るがない。密だけは違うのかと思っていたけれど……そんな奇跡はなかった。においが好きなのかと思ったけれど、」これが現実だ。僕がいままで密に対して感じていたなにかは幻だったのかもしれない。  結局、みんな僕のことは金持ちの医者の子どもとしか見ていないし、僕はそうとしか振舞うことを許されないんだ。  足許が暗く沈むほどに重たい悲しみがつま先から絡みついてくる感触がする。冷たくて湿ったいやな感触。 「今日は、もういいよ」 「え、でも」 「キャンセルする。着替えたら帰って」  失望した思いのままに放った言葉に密が目に見えて動揺していたけれど、僕はそれを黙殺して脱衣所を出る。  なんだ、やっぱり第一印象は外れないんだ。密なら僕と違って第一印象何かで決めつけないんじゃないかと思っていたけど……買いかぶりすぎていたのかもしれない。結局、みんな僕をそういう風にしか見ていないんだ。 (僕が周りをそういう風に見ていないように、密も、世の中もみんなそうなんだ)  いまさら考えなくても当たり前と言えば当たり前の話じゃないか……もう驚くこともないはずなのに。  でもなんで、こんなに胸が痛くて体が重たいんだろう。ものすごく強烈なボディーブローを喰らったかのようなじわじわと来る衝撃だ。  ウッディハウスキーピングにキャンセルの連絡をしなくちゃな……と、思いながらリビングのソファに放り出していたスマホを捜しに行こうとしたその時、突然背後から抱きしめられた。  何事かと振り返るより先に、肩にもたれかかって来たか頭から伝わる体温が小さく呟く。 「ごめんなさい……俺、バカだからちゃんと言えなくて……。でも、薫さんのことはマジで、すごい好きなんです。そこは、信じて下さい」  抱きしめてくる腕と肩に乗る唇が震えているのがわかる。まだほのかに熱い肌からは熟れた甘いにおいがしていて僕を包む。軽くてチャラいと思っていた彼の、あたたかで芯のある所を思い起こさせるまでに印象が変わりつつあったにおい。  でも、そんな劇的なことなんて起こるはずがないのを、いまいやと言うほど思い知らされた。  だから僕は、抱きしめていた腕をほどいて振り返ることなくもう一度言った。 「ごめん、無理なものは無理なんだ」  スッと軽くなった肩の隙間に風が吹いたのかと思うほど冷たい感触が走る。それは密の心が僕から離れた感触なんだろうか。見えもしないことをそう想像してしまうのは、なんでなんだろう。 「……どうしても?」  肩から離れた唇から紡がれた言葉に僕は黙ってうなずき、そのままソファへ向かう。  しばらくじっと僕を目で追っていたけれど、密は深く頭を下げて、「――失礼します」と言って後ろを振り返ってやがて部屋を出て行った。  ソファに座ってスマホを見るふりをしながら、僕は密の気配が消えてしまうのを待っていた。  玄関先からも彼の気配がなくなった頃になって、僕はソファの背もたれに寄りかかって大きく息を吐く。溜め息だけが部屋の中をさまよう。  見えもしない溜め息の行方を目で追いながら、僕はいましがた起こった出来事を反芻(はんすう)する。  交わしたキス、僕の下腹部に触れていた密の大きな手の感触、僕が触れた彼の肌の質感、熱、手の中に吐き出された白濁の熱さ……そして、差し出された想いと言葉とあのにおい。肩に触れていた唇の温度と残り香までも刻まれたようにいまも感じている。  キャンセルの連絡をしたスマホを放り出し、ソファの上で膝を抱いてうずくまると、微かに残っているにおいが包み込むようにまとわりつく。それはまるでさっき密に抱きしめられた感触によく似ていた。  友達であんなことしないのはわかっている。そして密が言っていた「好き」の意味も、何度か今まで言われたことがあるから、友達としてのそれじゃないこともなんとなくわかる。  わかるけれど――だからと言って、僕が密に友達としてではない「好き」という気持ちを持っていいのだろうか。  僕は密のことを最初に言われた「金持ちが考えることはわかんねーな」という言葉が気に障ったのもあって、チャラくて軽いやつだと思い込んでいた程に良い印象を持っていなかった。正直バカにした感情すらいだいていたかもしれない。ひょっとしたらそれは透けて見えていたかもしれないのに。  それでも仲良くしてくれた密とは約束もしたし、信じてくれたのに、裏切ってしまっている。  そして何より僕には、風磨という金銭のやり取りがあるセフレがいるし、風磨と密はこの前トラブルにもなっているからなおのこと関係を明かすわけにはいかない。  そんな僕が、彼に好きだと思われたいなんて言えるわけがない。彼に好きと言われる資格なんてない……それぐらい、僕にだってわかる。 「――無理なんだよ……僕に、密は無理なんだよ」  力なく呟いた言葉が残り香のわずかに漂う膝の隙間に消えていく。薄っすらと暗いその色は僕の胸の中の渦巻く感情の色にも似ている気がした。  結局その日のハウスキーピングはキャンセルになったので作り置きの惣菜がなく、すぐに食べられそうなものが見当たらなかった。作り置きどころかいつもの夜食もないので心なしか体が冷える気がする。  何かデリバリーでも頼もうかと思ったけれど、そこまでして何か食べたい気もしないのも正直なところだ。  思えば、僕はいつも一人きりで食事をしてきた。作り置かれた何かを、レンジで温めたりして、ひとりダイニングテーブルに座って口に運ぶだけの儀式をしているような気分だった。  でも密は違った。惣菜を作るついでに僕の夜食を作ってくれて、キッチンのカウンター越しに僕と話をしながら僕が食べ終えるまで付き合っていてくれたんだ。  僕は両親のどちらからもそうやって見守られながら食事をした記憶がない。いたとしてもシッターかハウスキーパーの誰かで、少なくとも密のように色々な話をしてくれたり微笑みかけてくれたりしたようなことはなかった。  だから余計に、密が作ってくれた夜食も惣菜も、それらに添えられるように傍らにいてくれた密のことが思い起こされてしまう。 「あ、なんかあった」  冷凍庫の中を漁っていたら、先週密が作り置いていてくれた豆ごはんのおにぎりが一つ出てきた。  それをレンジで温め、たまたま先週の食材をネットスーパーで買った時に買っていたインスタントの味噌汁と食べることにした。 「っふ、やっぱ味濃いな……」  塩味の利いたおにぎりをひと口かじると、キッチンに立って夜食を作る密の横顔や一緒に並んで床を拭いたりしていた時の逞しい手、そしてさっき欲情に濡れた目で僕を見つめて好きだと告げてきた姿が浮かんでくる。  密の姿が脳裏に浮かぶたびに胸……いや、身体の奥、お腹の深いところがキュンと切なく疼いてしまう。  疼きの正体が何であって、その名前が何であるのか、僕にはもうわかり始めていた。そしてどうしなきゃいけないのかも。  少なくともそれは、僕がさっき密に言い放った言葉ではないことは確かだった。
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