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*16 最悪の遭遇
翌日、講義を終えてキャンバス内を歩いていると、数メートル先の方から学生数人のグループが賑やかに話しながら近づいてくるのが見えた。
その中にひときわ背が高くて日に焼けた肌に明るい色の髪をハネさせた人影が見え、見覚えのある人懐っこい横顔に吸い寄せられるように視線を向けながら、僕は思わず立ち止まる。
――密だ…… 胸の奥が切なく痛み、あの日触れられた肌の名残が疼く。
たぶん結構無遠慮に見ていたのではないだろうか。僕の姿か視線に密の隣の学生が気付き、密に知らせるように声をかけている。
「あれって清田さん?」
「噂には聞いてたけどホントにきれいな顔してるー」
「イケメンって言うかきれい系だねー」
「密、知り合いかなんかなの?」
誰かにそう訊かれて、密は曖昧に笑ってうなずいて僕の方に軽く会釈してくる。
僕はそれに手をあげて答え、一歩、そちらへ踏み出した。密との約束を守れなかった罪悪感や、密に告白されてからずっと考えていたこと、昨日穴守が密の代わりに来てくれたけれど物足りなかったことなんかを僕なりの言葉で伝えようと思ったからだ。
一歩一歩近づきながら向き合う僕と密の表情は、いままでのような気やすさよりもどちらかと言うと若干の緊張を伴っている。無理もない、互いの熱い屹立を触り合って想いをぶつけ合ったのだから。
近づくほどに、あの熟れたにおいがする。引き寄せられるように僕はまっすぐに密を目指す。
「――あれぇ? 薫?」
あともう二メートルもない辺りまで差し掛かり、ひとつ息を吸って密の名を呼び掛けたその時、背後から馴れ馴れしい無粋なにおいを伴う声が僕を呼んだ。僕を絡めとるように捕らえて引き寄せるような、声の主の強引な考えが透けて見えるような声に僕は歩みを止め振り返る。
僕と密の間の少し離れたところに、風磨が立っていた。
風磨は僕に軽く手をあげて近づいてきつつ、そばにいる密を軽く一瞥する。その視線が妙に僕は引掛り……胸騒ぎを覚えた。
「何してんの? 授業?」
「ああ、まあ……」
僕に近づいて来た風磨は、ごく当たり前のように僕の肩を抱くように身を寄せてくる。風磨も結構顔立ちが日本人離れして整っているとかで学内ではそれなりに知られているようで、そんな彼と僕が揃って並ぶものだから密と一緒にいたやつらが色めき立つ。
風磨はそれさえも計算済みなのか、やたらにこやかに愛想よくふるまう。
「最近付き合い悪いよな、薫」
「……そうでもないよ」
ふーん? と、探るような目を向けられているのを感じるけれど、見つめ返して相手にする気はない。僕がいま話をしたいのは密なんだから。
風磨からの視線を無視して、「密、あのさ」と声をかけると密がこちらを向いて自然と見つめ合う形になった。
久し振りに向き合った密の目はどこか戸惑いが滲んでいて、その目に映る僕も正直毅然としているとは言い難い。
声をかけたもののどう話を切り出そうか一瞬ためらっていると、横でまだ見ていたらしい風磨が割り込んでこう言いだした。
「最近俺と“遊んで”くれないのってこいつと“遊んで”るからなんだな、薫」
傍から聞いても、風磨が言う言葉に違和感はないだろう。ただ単に僕の付き合いが悪いだけに聞こえる。
――でも僕はちゃんと風磨が何を言わんとしているのかわかっている。
「そういうわけじゃないよ、風磨」
だから放してくれよ、と身を捩ろうにも、腕を振りほどいて密の手を牽いて行こうにも、それさえも難しい。
彼が言わんとしていることはわかっているから、一刻も早く彼にこの場から去ってもらうか、僕が密を連れてどこかへ行くかしたいのに……風磨の腕に絡めとられるように捕えられていて身動きが取れない。まるで蜘蛛の巣に囚われた蝶のようだ。
じっとりとイヤな汗をかき始めている僕のことを見透かしているのか、風磨はニヤニヤとした顔で僕と密を見比べている。
密はそんな僕と風磨の姿を微かに――近くにいる僕にわかるかどうかくらい微かに――眉をしかめた表情で見ているのだけれど――もしかして密、怒っている?
どうしてそんな顔を……と、僕が疑問に思いかけた時、僕を捕えている手を密が掴んでこう言った。
「あんた、この前から薫さんにしつけーんだよ。酔っ払いじゃねえんだからこの腕放せよ」
「は? べつに“友達”ならこれくらいフツーじゃね?」
あからさまにバカにした言い方をしながら、風磨は密を挑発するように僕をより密着していく。
風磨は、なんとなく気づいているのかもしれない。僕と密が友達なのか、そうでないのか。もしくは風磨のように“友達”なのか。
「友達にも距離感とか礼儀とかあるだろ」
「距離感? 礼儀? それって仕事って口実で上がり込んで金もらう事とか?」
鼻先で嗤いながら密のハウスキーピングのバイトのことを暗にさしながら言う風磨の態度に、僕は身体中の血が沸くかと思うほどの怒りを覚えた。
密は決して、風磨が思うようなあからさまな下心があって僕のウチに来ていたわけではないことを、僕が一番知っている。ただ見た目がチャラそうに見えるだけで、本当はすごく真面目で仕事もちゃんとしてくれることも、僕が一番わかっている。
だから、僕は風磨に向かって言い返した。
「密はそんなんじゃないよ、風磨とは違う」
僕が言い返すなんて思ってもいなかったのか、呆気にとられて一瞬絡んでいた腕が緩んだ。
その隙に僕は風磨の腕を振りほどき、ついでに密の腕を取ってそのまま密を連れてその場を離れようとしたのだけれど、その背中に突き刺さるような言葉が投げつけられた。
「俺とそいつが違うかどうかなんてどうして言えるんだよ! 金払ってんのは一緒だろ!」
投げつけられた言葉に、僕は言い返さないまま足を速めていく。本当は掴みかかって殴ってやりたいくらいだったけれど、もうこれ以上密の前でみっともない姿をさらしたくない気持ちの方が強かったから、逃げてしまった。
密がバカにされたことを考えても、殴るまで行かなくても言い返すぐらいすべきだったのかもしれない。そうでないと、投げつけられた言葉を肯定することになってしまう。
そうわかっているのにできなかったのは……心のどこかで、それに気付いていたからだ。指摘されたことが身に覚えがあり過ぎて、言い返す資格がないことに気付かされたからだ。
情けない、悔しい……そして同じくらいに、密に謝りたかった。
どれぐらい密の手を牽いて歩いて来ただろうか。あてもなく、とにかく風磨から離れることだけを考えて歩き続けていたら、いつの間にかキャンパスの広場からずいぶん離れた理系学部の実験棟の立ち並ぶ敷地内にいた。
歩きながら、僕は知らないうちに涙をあふれさせていたらしく、立ち止まるとはたはた雫がアスファルトにこぼれていった。
「……薫さん」
僕の後ろで、密が窺うように名前を呼ぶ。その声からはいま彼がどんな表情をしているのかがわからない。怒っているのか、呆れているのか、それとも、僕を憐れんでいるのか。
密の表情を見ればどう思われているのかがきっとわかってしまうだろうから、振り返って密と向き合うのが怖い。
だから黙って背中を向けたままでいたら、「さっきの、前にゼミ棟でも絡まれてた人っすよね? マジで、友達なんすか?」と、訊かれた。
「……そう、って言ったら?」
振り返りながら質問を返すと、密は泣き出しそうな顔をして僕を見つめていた。その目は、この前僕が密に好きだと言われて無理だと返した時よりも傷ついた色をしている。
自分の仕事を、何かいかがわしいものと同列に扱われた人間と友達だと言ったのだ。傷つく気分になって当然だろう。だから僕は、ひとまず密の方に向き直り、小さく頭を下げた。
「ごめん、密。あんな奴に絡まれていやなこと言わせて密にいやな思いさせちゃったね。本当に、ごめん」
「……なんで薫さんが謝るんすか? あんな奴のためになんで俺に頭下げるんすか?」
「さっきの風磨の言葉、聞いてたでしょ? 金がどうとか、って」
「それって、奢ったりなんだりっていう……」
「そういうのも、まあ、あるけど……」
「けど?」
僕の言葉に、密の顔が訝しそうに歪む。言葉の意味が汲み取れないと言うように、首をかしげて僕を見ている。
理解なんてされないだろうけれど、もうこれ以上密を僕のせいで傷つけたくも悲しませたくもないから、本当のことを告げるしかない。告げて、もう会わないようにするんだ。
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