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*17 おわりにしよう
「――僕とあいつ……風磨はね、セフレなんだよ。それも、僕はあいつに金を渡してる」
僕の言葉に、密が目を見開いて絶句する。当たり前だ、まさか本当にそんな薄汚れた関係を持つような人間が自分の周りにいるなんて思ってもいなかったんだろうから。
「え……なんで、そんな……」
「密はもうわかってるだろうけど、僕、ゲイなんだよ。それをあいつは周りに言わない代わりに金をよこせって言ってるんだ。だからだよ」
口にしてしまうと、いかに僕と風磨の関係が異常なのかがより際立って、そして一層密と一緒にいることができないことがわかる。
僕と密は、住む世界も立つ場所も違いすぎるんだ。
「……全然、わかんねーっす。俺アタマ悪いから、薫さんが言ってることが全然わかんねーや」
密が今にも泣きそうな顔をしながら振り搾るように呟くのを、僕は出来る限りやわらかく微笑んで見つめ返す。せめて、最後くらい穏やかでありたいから。
「薫さんが男が好きなことは全然悪くないけど、大っぴらにしないでおきたいのもわかる。でも、なんでそれで金を払ってまであんなやつとセックスしなきゃなんすか? 全然俺そこわかんないんですけど」
「あいつが僕の秘密を知ってて、それをバラされないようにするためにはそうするしかないんだよ。やらせろって言われたら抱かれて、金くれって言われたら渡す……それだけだよ」
「それを、“友達”って言うんすか?」
「僕と風磨の間では、そうなんだよ」
弱く苦笑して僕が呟くと、密は大きく頭を横に振って全身で僕の言葉を否定してくる。
どうしてそこまで僕を信じようと言う気になるんだろう。僕なんて全然、そうされるに値しないのに。
「そんなの間違ってる! 薫さん、あんな奴と手を切らなきゃ! でないと、薫さんまでクズになっちゃう!」
「もう僕は充分クズだよ、密」
「……違う、そうじゃない。薫さんは、クズなんかじゃない。俺なんかに美味しいコーヒー淹れてくれたり、チョコくれたり、俺が作った料理美味しいって言ってくれたり、俺のことちゃんとしてるって言ってくれたりする人が、クズなわけない」
泣き濡れた密の目が僕を見つめる。本当の僕のことを明かして告げているだけなのに、どんどん密の目が傷ついた色を濃くしていく。僕なんかのために、何も悪くない密が傷ついていく。それが、僕にはわからない。
「そんな風に見えてるだけで、僕の本性なんてロクなもんじゃないの、もうわかったでしょ?」
「そんなことない、薫さんは――」
なおも僕のことを頭から信じて疑おうとしない密に、決定打になることを言わなくてはならないようだ。
最初からこれを言っておけばよかった……でも心のどこかでこれが密を決定的に傷つけることをわかっていたから無意識に避けていたのかもしれない。そんなやさしさまがいなことも僕には許されないようだ。
「じゃあ訊くけど、密、僕の部屋に最初に来た時言った言葉、憶えてる?」
「……俺が、最初に言った言葉?」
「“金持ちが考えることはわかんねーな”って。僕と風磨がセックスしたあとだったのも、密、気付いてたんでしょ?」
「それ、は……」
僕が突き付けた言葉に密が気まずそうに俯いていく。まさか聞かれていたなんて思わなかったのかもしれない。
唇をかんで悔やむような表情をする密に、僕はゆったりと微笑んで――でも頬には涙を伝わせながら――できる限りやさしく告げた。
「ヒトの第一印象は変わることはない。“におい”の違うヒトのことを良く思えることはない。僕は、あの日密が見て思ったまま、最低な奴のままでしょ?」
「……薫さん、それは……」
「だからさ、無理なんだよ。僕が密に好きになってもらうのなんて、絶対に」
ね? と念を押すように微笑みかけながら言っても、密はぐしゃぐしゃに泣き崩れた顔をして首を横に振っていた。まるで壊れたオモチャみたいに痛々しい姿を僕は抱きしめたくなったけれど、そんな資格は全くないから、何も言わずに背を向けて歩き出した。
一歩一歩密から離れていく。あの建物の角を曲がったらすぐにハウスキーパーも解約しよう……そんなことを冷静に淡々と考えながら、僕は歩いて行く。
そうして決めていた建物の角に差し掛かって曲がろうとした時、突然後ろから叫ぶような声が聞こえた。
「あんたがなんて言おうと、どんな奴とどんなことしてようと、俺はあんたが、薫さんが好きだ‼」
あまりの大声にすぐそばの教室の窓が開いてこちらを窺ってきて、僕は恥ずかしさで反射的に走り出して角を曲がった。
遠く離れたところで僕の名を呼んでいるような声がしている気がしたけれど、努めて聞かないようにしながら走り続ける。
走りながら、止まったと思っていた涙があふれて止まらない。流れるようにこぼれていく涙をそのままに、僕はひと気のないキャンパスの中を走っていく。
あの熟れた甘いにおいは、もうどこにもなかった。
ただひたすらにキャンパス内を走り回って遠回りをして、ようやく僕は家路についた。
走りながら泣いていたせいで息は切れているし汗と涙で顔がべたべたで気持ち悪い。髪もぐちゃぐちゃになっているし、服も汗でびっしょりだ。
でももう構わなかった。だからそのままスマホを取り出して、ウッディハウスキーピングのアプリを起動させる。
メニューから「アカウント設定」を選び、更にその中の担当のハウスキーパーの名前の書かれた箇所のチェックを外して送信ボタンを押した。理由は、書かなかった。
もうこれで、密との縁は切れてしまったことになる。大学は一緒だけれど学部は違うから、気を付けていればもう会うこともないだろう。
もう会うこともないんだと思うとぐっと胸が苦しくなったけれど、知らないふりをして再び僕は歩き出す。もう彼がやってこない僕の部屋へ。
帰り着いた部屋はがらんとしていて特に変わりはなく、僕はひとりリビングにたたずむ。
「……なんか、腹減ったな」
そう呟いて冷蔵庫を開けてみたけれど、そこにも冷凍庫にも、どこにも密が作り置いてくれていた惣菜もおにぎりもなかった。あるのはミネラルウォーターと密とたまに一緒に食べていたチョコレートと、コーヒーだけ。
口にできそうなものはそれだけしかなく、僕は仕方なくお湯を沸かしてコーヒーを淹れることにした。
ふわりと香って来たコーヒーのにおいに涙腺が刺激されたのか、沁みたように痛くて視界が滲んでしまう。僕は今日、どれだけ泣けば気が済むのだろうか。
溜め息をつきながら淹れたてのコーヒーをひと口飲み、チョコレートをかじる。鼻先にまとわりつくのは、やわらかでやさしい密と過ごしたひと時のにおい。
「これ、こんなに苦かったかな……」
口でとろかすチョコレートを苦く感じてしまうのはどうしてなんだろう。いまのこの光景は僕が自分で選んで辿り着いたものなのに……なんでこんなに、苦しいんだろう。
「あんたがなんて言おうと、どんな奴とどんなことしてようと、俺はあんたが、薫さんが好きだ‼」
昼間最後に聞いた叫び声がいまも耳の奥で鳴っている。耳鳴りよりもやさしく、うず巻くように繰り返し波のように。
寄せては返す感情の波が少しずつ僕の心を抉っていく。悔やんじゃいけないと思っているのに、どうしてもあの時振り返らず振り払うように走り出したことに後ろめたさを感じてしまう。
ひと口かじっただけのチョコレートと飲みかけのコーヒーを前に、僕は沈んでいく心が止められなかった。
ふとその時、どこからか震える機械音が聞こえてきた。それはスマホにメッセージが届いているお知らせで、画面に表示されていたのは――風磨からのメッセージ。
『いまどこ? 暇なら行っていい?』
メッセージがなくても、どうしてどこに来ようとしているのか聞かなくてもわかりきっていた。彼の目的も、求めている物も。
だから僕は何の感情も持たずにそれに返信をするためのメッセージをつづっていく。もうすべてがどうでも良かったから。
『OK じゃあ今から薫のとこ行く』
すぐに帰ってきたメッセージを一瞥してスマホを放り出し、大きく溜め息をつく。溜め息は薄暗くなってきた部屋の中で転がって消えた。
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